【読んだ】多木浩二『スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム

スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)
■読むの三度目位だけど内容濃い。エリアスはスポーツを「社会が暴力を飼いならす事」、すなわち非暴力化(=文明化)の過程としたけど、一方でそれは国家による暴力独占の過程ともパラレルで、それは見落としてたよねと。ともあれそれってジェントルマンというイギリスの階級と密接に結びついてたんだけど、アメリカさんとかがすんごい勢いで大衆化したと。個人的には最近「ルール」という概念とか、ルールへの適応って面白いと思っていたんだけど、「ルール=抽象的な体系=デジタル」「ゲーム=現実態=アナログ」という区分けには溜飲が下がる。

■で、なんでこのタイミングで読み直したかっていうと、バレーボールの試合中継かなんかで選手の心拍数が表示されてるのが話題になってたからなんだけど。パッと見の印象は「や、スポーツで身体を眺める視線って元々そういうものでしょう」というものだったんだけど、この本読むとやっぱ近代スポーツの観戦って「情報」と切り離せないものらしいっす。なので、件の心拍数問題は「ずっと慣れ親しんできたスポーツなるものの一部分を肥大化してみたら結構グロかった」とかその辺の感じなんじゃないでしょうか。

スペクタクルとしてのスポーツは日常を超えているのではなく、日常生活では拡散して見えにくくなる身体感覚を、目に見えるまで凝縮して情報の領域に持ち込むものなのである。(P134)

スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)

スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)