【読んだ】苅部直『移りゆく「教養」』
■冒頭のネタ振りが面白い。ある病気の患者家族会が講演で医者を呼んだと。そしたら所謂啓蒙的な内容ではなく、学会の資料をそのままトレースした専門的な内容を発表したと。しかし聴衆である患者家族は臆するどころか対等に質疑応答に臨んでたと。ここから教養概念の再検証を宣言をする訳ですが、多分それは「専門性と公共性の間にあるコミュニケーションへの開かれ方」みたいな事かと。つまり竹内洋が描いた旧制中学文化的な「教養」概念、即ち(抑圧的な)人格形成をドグマにしながらその実階層戦略でしかない「教養」とは別の軸を探す事ですよと。
■当然東浩紀のデータベースの話や石田英敬の話は出てくるし、あるいは(感染動機的な?)身体性の復権の話も紹介されたりすんだが、それはエクスキューズに留まっている印象。むしろある種切断的に「読書による教養」に拘る感じは結構好感を持つ。歴史的なエピソードとしては、長野の公民館の歴史が面白い。要するにトップダウン的に制定された公民館という制度に対して、奇跡的に草の根的なハッキングが起こったと。それが今でも、行政との距離感とか結構いい感じのガバナンスに繋がっとると。当然盛ってるんでしょうが、しかし理念系としては面白い。
■まぁつまるところ「教養は必要」と宣言する本な訳です。そしてもちろん「専門性」に限らず他者一般とのコミュニケーションへの開かれ方の話をしている訳で、例えば「当事者性と公共性の間にあるコミュニケーションの開かれ方」とする事もできる訳ですよね。これって全世界的に今とても切実な問題だと思うので、馬鹿な左翼の人とかどんどん読んだらいいんじゃないでしょうか。
■稲葉振一郎が『経済学という教養』で似たようなこと言ってる
すべてを知ることが「教養」ではない。そうではなく、それ以前の「生活態度」のレベルで重要なことがある。それは「専門知識」のありがたみを骨身にしみて知っておくこと、つまり自分の現場で自分なりの「専門知識」をきちんと身につけておくことによって、他人の「専門知識」に対する尊敬の念を持てるようになること、であろう。
言い方を変えると「知識の経済学」というものが、単に比喩としてではなく大真面目に考えられる。そしてぼくがかんがえるそこでの基本原理は、やはり「分業」、つまり知的分業だ。ではその観点からすれば「教養」とは何か?それは第一に「知的分業に参加できるためにみんなが最低知っておくべきこと」であるだろうが、それ以上に重要な第二の要素は「知的分業を可能とする社会的な枠組みと、それへの信頼感の共有」だろう。つまりそれって「公共性」と別のことではないんだ
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