【読んだ】ジークムント・バウマン『リキッド・モダニティ』

リキッド・モダニティ―液状化する社会
ご本人が液状化なされたと聞きパラパラと(不謹慎)。

新しく出現した時間の瞬間性は、人間の共生形態を激しく変化させた。とりわけ、人間の集団的事象とのかかわり方、そして、ある事象を集団的なことがらにする方法の変化はいちじるしかった。

現代人は「過去を忘れ、未来を信じない」現在を生きている点において、かれらの父親や母親に似ない。過去の記憶と未来にたいする信頼は、これまで、一過性と継続性、人間的行動の道徳性と非道徳性、責任と無責任のあいだの文化的、道徳的橋梁を支える脚柱だったのだ。

流体的近代における支配競争は、「大きいもの」と「小さいもの」でなく、速いものとおそいものとの争いである。競争相手が追いつけないような速さに加速できるものが支配する。速度が支配を意味するとき、「領土の獲得、活用、植民」はハンデであり、負債であって、財産にはかぞえられない。

クローク型/カーニヴァル型共同体は、「ほんとうの」(包括的、永続的という意味で)共同体の姿をまね、ほんとうの共同体をゼロからつくると(誤解をまねきかねない)約束をしながら、実際には、そうした共同体の形成を妨害する。クローク型/カーニヴァル型共同体は、社会性をもとめる衝動の未開発のエネルギーを集約するのでなく、拡散し、そして、まれに集団的強調、協力に、必死に、しかし、空しく救いをもとめる人間の孤独を永久化する。

訳者解説やけど↓

バウマンにとって固体的近代はもっとも危険で有害であると同時に、もっとも大きな希望と可能性を秘めたものである。それにたいして、流体的近代は小さな幸せ、短期的満足はもたらすとしても、根本的改善の余地も、未来の展望もない袋小路的状況にすぎない。固体的近代には個人的自由の否定、抑圧があったかもしれないが、個人が市民的、政治的にむすびつくことによって、社会がよりよく、公正なものになりうる希望があった。労働者は移動の自由を奪われ、ルーチンにくみこまれ、搾取をうけていたかもしれないが、団結によって生活の向上と、安全と、安定を確保しうる見込みももっていた。一方、流体的近代では個人の不安、苦悩はすべて個人のレヴェルで解決されなければならない。雇用の不安、安全への不安、アイデンティティへの不安は、たとえば、消費による神経の一時的麻痺によって解決されるだけである。

とにかく、適当に頁をめくっただけでも↑の様な文章に行き着くくらい、明確な「結論(というか預言)のようなもの」細かくが提示されている。しかしこれは「普遍的」というよりは「普通」と形容したい感じもする。昔はこの本について結構感動した気もするんだが、それは結局実存と地続きで気持ち良くなれる事がたくさん書いてあったからで、まあ本の読み方としては、一般的に言って「ダメな」読書だったんだろうなと。こないだのボルタンスキーの展示にも感じたんだけど、歴史やコンテクストを鑑みた上でもやっぱ「ありがたがり方」には気をつけたいですよね。

リキッド・モダニティ―液状化する社会

リキッド・モダニティ―液状化する社会