【読んだ】魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か
■とても面白かった。僕は全く仏教には通じていないのだけど、おそらくとてもリベラルな書き手なのだと思う(というか、仏教それ自体をとてもリベラルな教義として紹介していると思う)。

■前半部で仏教の(非)論理体系が説明されんだけど、おそらくは西洋哲学のフレームワークをかなり意識してるのだと思う。有漏善を説明するのに「素朴な功利主義」と喩えられていたり、経験我を「認知の集合」として流動的なものとして捉えたりとかとかって話は、古典的な身体論から、認知心理学や最近の脳科学への流れの話にとても近いものとして理解できた。

■逆に、西洋哲学のフレームワークでは咀嚼しにくい部分についてもしっかりと明示をしてくれている。本書の後半部の論旨は「今でも悟ってる人はゴロゴロいる」「悟るというのは明確に認識できる経験である」っていう話で、言語でギリギリまで「悟る」という経験を記述しているんだけど(多分認識において生じるの意味付けが無効化されていく様な感じかな、と捉えた)、実際の経験の相は記述ができないとハッキリと書いていて、これをゼロポイント、と指している訳です。

■多分だけど、言語化可能な論理体系が「セッティング」と例えられるとすれば、キマった瞬間が「ゼロポイント」になるのかと。で、ゼロポイント以降は多様性が生まれる余地は全然あって、教義が分化するのは全くおかしなことではないと(遊び、公共財としての自己。「なぜブッタは死ななかったのか」)。

■素朴な感想として、仏教の教義全体を通して、例えば「現実性/本来性」とか、「有漏善/無漏善」とか、世俗的なものへの対応の仕方をものすごく体系化されているのが興味深かった。

■あとこれは完全に邪推だけど、最後にちょっとオウムの話が示唆されるんだが、書き方とかを見るに、ここは凄くバランスを迷った所じゃないかな、と思った。率直に言って、「カルトを容認できてしまうリスク」とか、あるいは宮台真司が露悪的に言ったみたいに「体験系宗教は薬物で代用できてしまう」とか、そういうツッコミが入ってくる余地はありそう。とはいえ、それに対してどう返答を返すのかも見てみたい。

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か