【読んだ】大塚英志『物語消費論改』

物語消費論改 (アスキー新書)
■2012年の本。冒頭、1989年に上梓した物語消費論について「マーケティングの理論であり、それは即ちプロパガンダの理論だった」と自省的かつ露悪的に位置づける事から始まる。89年と2012年で異なるのは、「断片的な情報」から「大きな物語」を構築するプロセスの中に特権的な操作者が消え、ユーザーがユーザーを動員するポピュリズムが起こってると(因みに「ユーザー」と言った直後に「大衆」とパラフレーズする辺り、ヒヤヒヤする言葉のセレクトは半ば意図的なのかと)。無論そこでは「天皇制」の様な右翼的な物語も希求されているんだが、同時にこの時期の反原発デモにも同じ危険を見てる事は明らか。寧ろ保守メディアの方がこの操作者なきポピュリズムにビビってると。

■で、本書はこの状況がどう生じたのかっていう歴史を書いてる訳です。例えばポストモダンとかもてはやされてた80年台、実は文学の世界では「大きな物語」は純化して生き永らえてたと。そこでは現実の歴史や固有性とは無関係な「仮想化」「サーガ化」した歴史世界が現れてて、そこは独立した物語世界では有るんだが、寧ろ物語の構造としては純化したもだったと。因みにこの事態を「文学のサブカルチャー化」と定義した江藤淳が、村上龍よりも田中康夫(なんクリ)に批評性を見出していた、というのは椹木野衣の構図と全く重なる。

■で、歴史性を欠いた「大きな物語」がオウムになった訳ですが、その危険は今もあって、例としてネトウヨ的な(三原じゅん子的な?)歴史観の登場や、反原発運動(の失敗)を危惧していると。処方箋として、いつもの様に物語の再構築、文学の復権を言う訳ですが、そこでジブリ作品の分析が持ち出される。ナウシカ以降、ジブリ作品は「サーガ」からハッキリと離脱して、「寓話」としての完成度を磨いていると。同時公開された「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の物語構造の相同性と相違性とかなるほどと思った。最終的には、(椹木流に言うと)歴史を欠いた「悪い場所」としての日本という物語から降りろと言っている様にも見える。普通なら冷笑系とかダメなリベラルとか言いたくなる話ではあるけど、しかし当時を思い出すと僕も反原発デモとかに行っては途方もなく凹んでしまい、「メタり」が必要だなあ、とか考えていた事を思い出したりした。

■あと余談だけど、89年前後の論文がいくつか再掲されてて、そのうち一個がメセナについて書いている。大塚自信も回想として認めているんだが、批判をする側ですら素朴に経済成長と消費拡大が進む事について疑ってなくて、未来人からするとやっぱ異様。今度の東京五輪の文化プログラムの基本構想みると今時真剣にメセナメセナ言ってるんだが、やっぱりいくら御託を並べてもあれは戦後的なものへの病的な憧憬な気がする。つか、曲がりなりにも国家プロジェクトのプレゼン資料がこのダサさでいいのか。

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物語消費論改 (アスキー新書)

物語消費論改 (アスキー新書)