【読んだ】稲葉振一郎『「資本」論―取引する身体/取引される身体』

「資本」論 ――取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

■結論は「無理してでも「労働力=人的資本」を所有可能な財産とみなし、人々をその財産所有者とするべき。福祉国家が保障するべきは人々の生存ではなく、労働力=人的資本の所有者としての権利やで」って事かと。無論こう書くと「ネオリベやな」と思うし、貧困とセックスワークの話とか頭よぎるし、あと著者自身は身体の可塑性に基づく格差拡大(ライザップ?)とかも書いてるけど、でも現状では概ねこれが最適解よねと。ホッブスやロックから根本から所有の概念の論じ直すのは、書名からも明らかな通りマル経金子勝)への回答だからなのでしょう。

立岩真也読まんとなー。あと、義務教育受けてないのでロックの労働力の所有の考え方再確認しつつ、もっかい論旨確認したい。

■以下、気になった文言をいくつか。

やはり、本当は労働力は財産ではない - 人的「資本」ではないのはもちろん、労働力「商品」でさえない、と考えた方がよいのでしょうか?

問題は、人間と人間ならざるもの=財産たりえるものとを分ける線、というものをどう考えるか、ということでしょう。それは「奴隷」という存在を許容しないため、人が奴隷とされることを、許さないためでもありましょうが、また同時に、人と、人が生きる舞台としての「世界」との間に画然たる線を引くためでもありましょう。人間以外のものたちは「世界」を構成する部材である、というわけです。

より肝心なことは、先に見たようなセーフティーネットが、ただ単に雇用労働者の生存を保障する、というだけではなく、その財産所有者としての - しかも労働力=人的資本という財産の所有者としての権利をも保障するものとして、ただ単に事実として機能する、というだけでもなく、そのように観念されなければならない、ということです。

一般論としては、人材育成、従業員の教育訓練に熱心な企業は「よい企業」である、と言わざるを得ないでしょう。しかしそのような会社=雇い主は、従業員の労働力=人的資本そのものの内容までをも、実質的に支配しかねない存在でもあるのです。

私の考えるところでは、まさに労働力=人的資本を資産として扱うこと、それをあたかもモノであるかのごとく擬制することを、他人に対しても、そしてとりわけ寄寓先の統治権力に対しても要求することは、とても重要な意味があるのです。なぜならそう要求することによって、難民は「私を「剥き出しの生」として扱うな」と求めていることになるからです。

財産権を行使し、財産というモノを使ってこの世界を生きる主体として扱うのであって、裸の動物として扱うのではない、という事です。

本書ではマルクス主義の遺産を真面目に評価しつつ、基本的にはしかし批判的に対しています。マルクス主義の路線をそのまま引き継ぐことはせず、むしろマルクス主義者なら批判するであろう方向の議論を打ち出しています。つまり、資本主義は不平等と疎外を生む仕組みだが、だからといってそれを丸ごと拒絶し、オルタナティブな社会システムを目指すべきではなく、そのうちにとどまるべきだ、と。不平等の中で不利なポジションにおかれ、疎外に苦しむことの大きいであろう霧散労働者階級に対しても、なおその「私的所有」にこだわり、財産所有者として戦うことをこをそ求めているわけです。

しかしポストヒューマン状況においては、このような経済と身体の連動がより一層強まるおそれがあります。つまり豊かな者は優生学的操作やサイボーグ技術によってより高性能の身体を手に入れられ、これに対して貧しいものは相対的にますます劣位に立たされる、という可能性が。