【読書メモ】『ドゥルーズの哲学原理』(随時修正してく)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

■超越論的経験論について
【カント的な主体の「発生」への視座】
・カントは経験の条件として、超越的領野たる主体を論じたが、しかしその主体の「発生」については論じなかったと。
ドゥルーズはカントが批判したヒュームに発生の問いを見出す。ドゥルーズはヒュームの経験論とカントの超越論を綜合し、超越論的経験論を論じたと。そこでは経験の条件の発生に際して他者の存在が論じられる(無人島)。

ライプニッツの「出来事=特異性」について】
ドゥルーズにとっての超越論的なものとは、ライプニッツが論じた「出来事=特異性」である。
ライプニッツによれば、出来事は個体の発生素である。「そこに現れるのは、すべてが主語から演繹されるような固定的な世界ではなく、すべての主語(主体)が動詞(出来事)の作用の痕跡としてあり、出来事が到来するその到来そのものが集積されて世界をなすような流動的な世界である(P62)」。
ドゥルーズによれば、ライプニッツは出来事の系列と分岐について論じたが、結局は過去に遡及して出来事を論じたため、現実を肯定する論理にしかならなかったと。いやいやそうじゃなくて「問われるべきは現状から出来事へと直接に向かう動的生成(P63)」ちゃうんかと。「出来事というこの発生素を、現実世界への奉仕からから解放すること(P63)」。

【微細表象論について】
「出来事の系列論は、系列の分岐と排除によって発生を説明していた。微細表象論は、分岐や排除を前提することなく発生を説明するためのモデルになる(P66)」

【<可能性と実在性>、<潜在性と現動性>】

フロイト精神分析について】
フロイト精神分析や自我の考察を通じて(カントが論じなかった)主体の「発生」を論じた
フロイト的な自我の発生
 →快原理を求めるエスに対し、快を延期する現実原理を担う自我が生じる。
 →ライプニッツの微細表象論とフロイトの自我論の関係。(P70-P71)
・局所的自我と大域的自我
 →微細表象的に局所的自我を捉える
・快原理の発生について(P72-P73)
タナトスの発生の原因(P74-75)

■思考について
【『プルーストシーニュ』】
→思考は強制によって発動する。
→思考をもたらすものが「シーニュ(しるし)」である。
→思考は主意主義的ではなく、非主意主義的だと。

シーニュを読み取る訓練】
→学びの理論。問いと問題。問いと異なり、問題への解はそれを規定する諸条件によって変化する(P104)
→従って「潜在的な諸要素から成る〈理念〉としての問題、それに直面し、自分なりの仕方でそれへの対応を図ることが「学び」に他ならない。それに対し、「知る」とは、問題が発する問いについてすでに提示されている解決規則を手に入れることにすぎない。だから、学ぶにあたっては、問題(〈理念〉)がどう構成されているのかを、各自が各自の仕方で洞察しなければならないだろう(P105)」。

【「反復」と「習慣」】
→「反復されるものは一つ一つ全く異なったものである。完全に同一の行動が繰り返されることはないし、完全に同一の事態が現れることもない。その意味で、反復は毎回が交換不可能、置換不可能である。習慣は、そうした一つ一つが交換不可能、置換不可能である経験の反復から「何か新しいもの、すなわち[…]差異を抜き取る」ことで成立する(P91)」。
→<反復と習慣>は、<自動的再認と注意深い再認>、<運動イメージと時間イメージ>に対応する。
→「あらかじめもっていた企てによって発揮される主体性(第一の主体性)は、物事を既存の知覚の体制に沿って再認するにすぎず、少しも新しさをもたらさない。物事の変更につながらない。既存の知覚の体制を破壊するような知覚との出会いこそが、〈物質に付け加わる主体性〉(第二の主体性)をもたらす。」113

・え、じゃあドゥルーズって「失敗を目指せ」って言ってんの?無理ゲーじゃね?っていう。

ラカンについて(※こっからDGパート)
【構造と機械】
→構造 一般性の次元 習慣
→機械 特殊性の次元 反復

ラカン精神分析について】
ドゥルーズは、ラカンフロイト)が単一の欠如、原抑圧から主体を論じている点を斥ける
ドゥルーズは一回性の出来事を起点とする生成モデルを認めない
→故にオイディプス・コンプレックスも認めず、反復こそが抑圧を生むとする。153

微分と異化】
→よくわかってないけど、構造内の差異を生み出すのが「微分」で、その中からある構造が現動化するのが「異化」かと。「前者(微分的)は、或る項が他の項から区別される差異としての力を持っていることを意味する。後者(異化)は、他から区別される形であるまとまりが生成していく過程を形容する(P65)」。
→多分この辺は檜垣立哉の『ドゥルーズ入門』、小泉義之の『ドゥルーズの哲学』に詳しいかと。

構造主義は主体を消し去るのではなく、別の仕方で主体を定義する思考である。

フーコーについて
【言説的編成と非言説的編成】
それまで言説的編成を扱っていたフーコーは、『知の考古学』以降(具体的には『監獄の誕生』と『知への意志』)に於いて非言説的編成を扱う。しかし、フーコー自身は非言説的編成について積極的な意味付けをできなかった。ドゥルーズは、フーコーの議論の中にある言説的編成と非言説的編成を見出した上で、二元論に陥らず、両者の繊細な因果関係を読み解く。

【「ダイヤグラム」について】
権力は特定の階級の所有物ではなく、拡散して存在する。権力はそれだけでは潜在的なものであり、「知」という硬い形態を経由する事で作用する。この権力(非言説的編成)と知(言説的編成)が協働する様をドゥルーズは「ダイヤグラム」と呼ぶ。

【権力から欲望へ】
フーコーは権力論の枠組みでものを考えたが、そうである以上、常に知は権力によって決定されている事になる。従って、フーコー自身の「知」も袋小路に陥らざるを得ない(209-210あたり。この辺も自信ない)。『知への意志』の問題点。『監獄の誕生』に於いてはダイヤグラムの概念で優れたミクロ分析を行なったが、「生-政治」の概念は権力を「マクロ/ミクロ」という対立の次元に回収してしまう。
ドゥルーズは、やはり権力についても「発生」を問わなければならないとし、権力は欲望のアレンジメントによって発生するものだとする(「権力とは欲望の一つの変状である)」。
→つまりドゥルーズは権力ではなく欲望を持って社会を描こうとすると。