【読んだ】ロバート ヒューイソン『文化資本 クリエイティブ・ブリテンの盛衰』

文化資本: クリエイティブ・ブリテンの盛衰
ロンドンオリンピックに前後してイギリスの文化政策周りで起こった事柄をルポ的に書いた本。文化論的な話で結論づけようとしているけどそこはなんかとってつけた様な話で(※)、基本的には人事と予算配分の政治的な動きを追う感じ。訳者もあとがきで書いてるけど、そもそも文化政策の発想や理念は国によってかなり異なる上に(イギリスはアメリカ型とヨーロッパ型の折衷らしい)、書かれている個々の話はイギリスのローカルな事情に依る話が多い。にもかかわらずこの本が訳されたのは、日本でもオリンピックが近いという事もありつつ、日本版アーツカウンシルの導入があったりとか、日本の文化政策のモデルとしてイギリスが参考になるからという事なのかと。

▼ざっと読んだ印象としては、「良い読み方にも悪い読み方にも開かれてるな」と思った。一般論として読んでしまうと全く目新しいものはなく、例えば「第三の道」と言わずとも「冷戦終わって調子こいてるリバタリアン連中へのカウンターパートとしてなんか政策とかできたけどそれって別に普通の市場主義じゃねえか問題」とか昔から言われてる話だし、一見寛容的に見える多文化主義とかコミュニティ政策とかが全然イケてない問題とかも散々批判されつくされてますよね。「無駄な事務仕事多すぎ問題」だったらそれこそD.グレーバーの本とかで溜飲下げればいいんじゃないかと。ローカルな話で言ったって、例えば、文化を有用性の次元に還元しつつ目標管理と成果主義をセットにして予算配分する事への批判は、文系学部廃止の騒動の時に散々言われた話に似てるなーと思ったし、地方分権とか言ってその内実はただの中央集権の強化じゃねえか、みたいな話は地方創生っぽいなーと思った。文化と階級戦略(日本なら階層になるんでしょうが)の関係が変わってきてる話とかは、例えば教養主義の話とか、ローカルな話の新書とか読んだ方が日本の読者としてはアクチュアルなんじゃないでしょうか。

▼こういう、なまじっか実感に近い所にありつつ、かつ自分たちの状況への批判としても有効に機能してしまう本というのは、特に真面目な人たちの間で無意識に「ポルノ的」に機能してしまうんじゃないかと思う。すげー雑な偏見ですけど、いわゆる「意識が高い人」って自己批判が好きというか、自分が属している(と本人が自覚している)集団のダメ出しをするのが好きですよね。それって例えばレポートとかで書くと馬鹿な教員とかから良い成績もらえたりするんですけど、そういう感じで読まれるとマジでダメなんだと思いますね。原著の表紙はBanksyですけど、それこそ「Exit Through the Gift Shop」的なブラックコメディとして仕上がってれば教訓も引き出せそうですが、翻訳にあたってはなまじっか真面目感のある体裁をとってしまっているのでなんか嫌な予感がするな、と(因みに超邪推ですけど、Oasisに訳注付けるくせにKinksには訳注付けないとか、日本版の読者はかなり上の世代を想定してるんじゃないの、と思った)。

▼ただ僕は全然知らない世界だけど、多分、政策決定をする人ってこういう話をすげー参考にしてるのかもなー、とも思いました。この本読みながら、日本のシンクタンクとかが書いたアーツカウンシルとかオリンピック系のレポートとか読んでみたけど、日本の政策ってやっぱすげえ海外の先行事例を参照してるんだなーと。それが「完コピ」志向なのかどうかは知らないですけど。

▼上で書いたのはあくまで「読み方」の話であってこの本には何の責任もない(そもそも個人的には本を「良いか悪いか」で読む様な事はしたくない)んですけど、とはいえ、ちょっと翻訳は酷すぎると思いました。「予言の自己成就」くらい知っとけとかそういう話の前に、日本語としてのあたりかかりが本当に難解。多分ゼミ生とかが訳したんじゃないのこれは。

※まぁでも、例えばコンサルタントとかに「芸術の経済効果は!」みたいな事を品のない統計データと共に出されるだけで目がキラキラしてしまう文化施設職員とかが未だにいるんだとしたら、まぁ大切な事言ってるんでしょうね。ただ、もしそういう状況なんだとしたらマジで終わってる世界ですよね。

文化資本: クリエイティブ・ブリテンの盛衰

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