【読んだ】ジル・ドゥルーズ著 國分功一郎訳『カントの批判哲学』

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)
▼訳者解説が白眉。「ここからここまではカントの話」「ここからドゥルーズの話」っていうのをものっすごい明確にした上で、この本が後のドゥルーズの論にどう引き継がれていくのかというのがすごくよく分かる。

▼カント先生の哲学に出てくる能力って、第1に「認識能力(純粋理性批判)」、「欲求能力(実践理性批判)」、「感情能力(判断力批判)」っていうのがありますよね、と。で、第2に(「感性」という1つの受動的能力と)「悟性」「理性」「構想力」という3つの能動的能力がありますよね、と。この第1の能力それぞれの場面について、第2の能力が組み合わさってシステムを作ってるんですよ、と。

▼認識能力の場合。「主導的立場に立って諸能力の一致をもたらし、立法行為を行うのは、悟性である。構想力は、感性の受けとった直観について、総合と図式化を行って、それを表象にする。悟性は、表象に自らの有する概念を適用して判断を下す。理性は、概念を用いて推論を行うために、経験を超え出る理念を形成して、悟性を支える(P195)」。

▼欲求能力の場合。「主導的立場に立って諸能力の一致をもたらし、立法行為を行うのは、理性である。理性は、自由という理念に基いて、物自体に対して立法行為を行う。ご制覇、ある行動が道徳法則に適合しているのかを判断する。構想力は、美と崇高を通じて、感性的自然における合目的性の存在を明らかにし、一見したところ単に信仰に寄りかかっているように見える道徳意識を陰で支える(P199)」。

▼感情能力の場合「ここでは、主導的立場に立って諸能力の一致をもたらす能力は存在しない。構想力は悟性による規定から逃れて、自由に振る舞う。悟性は規定された概念なしで作動する。これらの両者が一致した時に、美的判断力と呼ばれるものが成立する。主導的立場に立つ能力はないが、立法行為を行う能力は存在する。それは判断力である。但し、判断力は、確かに一つの能力ではあるものの、それは諸能力の一致としてのみ存在するのであって、悟性や理性とは位置づけが異なる。また、立法行為を行うといっても、対象は存在せず、ただ自らに対してのみ立法行為を行う(P203)」。

▼じゃあこれを通じてドゥルーズが何をやろうとしていたかというと、「批判哲学を、諸能力という項からなる置換体系に還元するという一種の形式化作業を行い、それによって、システムの基礎、すなわち、システム自身では基礎付けられない点を明らかにした(P213)」。逆に言うと、カントは超越論的な領域を「想定」してしまっていると。しかも、超越論的領野は経験に基づかないものであるとしているにもかかわらず、カントはその理論家にあたって経験的領野を引き写してしまっていると。 従って必要なのは、「想定」ではなく「発生」を描く事、とりわけカントが経験の基礎として据える「主体」の発生を描く事だと。で、ドゥルーズが後に論じる「出来事」や「差異」「潜在的なもの」を経て「内在平面」に至るまでの出発点が、本書にあるんですよ、という事かと。

われわれは一方にある受容の能力としての直感的感性と、他方にある真の表象の源泉としての能動的な諸能力とを区別しなければならない。総合は、その能動性において捉えられるとき、構想力へと関連づけられる。その統一性において捉えられるときは悟性へと、その全体性において捉えられるときは理性へと関連づけられる。ゆえに、総合へと介入してくる三つの能動的な能力、すなわち、構想力、悟性、理性があるわけだが、しかし、それらの能力はまだ、その内の一つを他の一能力に対比させて考察してみるなら、特殊な表象の源泉でもある。われわれの体制は、受容的能力を一つ、そして能動的能力を三つ持っているということになる(p24)。

それぞれの<批判>ごとに、悟性、理性、構想力は、様々な関係に入り、その際、これらの能力の内のどれか一つが統轄的な位置に立つ。したがって、われわれがどの関心を考察するかにしたがって、諸能力の関係の中には、一貫性をもった変化が起こることになる。一言で言えば次のようになる。語の第一の意味での能力(認識能力、欲求能力、快・不快の感情)には、語の第二の意味での諸能力(構想力、悟性、理性)の関係の一つが対応しなければならない。かくして、諸能力についての理論は、超越論的方法を構成する、一つの心のネットワークを形成するのである。(P27-P28)

それゆえにカントは、二つの立法行為と、それに対応する二つの領域とを区別している。すなわち、「自然諸概念による立法」とは、これら〔自然〕諸概念を規定するものである悟性が、認識能力ないし理性の思弁的関心の中で立法行為を行う場合を言う。その領域は、あらゆる可能な経験の対象としての現象の領域、ただし、現象が感性的自然を形づくる限りにおいてのかかる領域である。「自由概念による立法」とは、この〔自由〕概念を規定するものである理性が、欲求能力において、すなわち、自らの固有の実践的関心において立法行為を行う場合を言う。その領域は、ヌーメナとして思考された物自体の領域、ただし、物自体が超感性的自然を形づくる限りにおいてのかかる領域である。これこそが、カントの言うところの、二つの領域の間の「大きな裂け目」である。(P68)

ひとつだけ、実践理性批判の全体に関わる危険な誤解がある。それは、カントの言う道徳は自らが実現されることに無関心であると考えてしまうことだ。実のところ、感性界と超感性界の間の裂け目は、埋められるためだけににみ存在する。すなわち、超感性的なものが認識されるのを免れ、感性的なものから超感性的なものへとわれわれを移行させる理性の思弁的使用なるものが存在しないとすれば、その代わりに、「超感性的なものは、感性的なものに対して、ある影響を及ぼすべきであり、自由の概念は、その法則によって課された目的を感性界の中で実現すべきである」。つまり、超感性界は原型であり、感性界は「模型である。なぜなら、それは前者の理念から生ずる可能的結果を含んでいるからだ」。自由な原因は純粋に可想的である。しかし、われわれは、現象であるのも、物自体であるのも、同じひとつの存在なのであり、現象としては自然的必然性に従属し、物自体としては自由な因果性の源泉であると考えねばならない。それだけれはない。同じ行動、同じ結果が、一方で、感性的諸原因の連鎖へと送り返され、この連鎖によればこの行動ないし結果は必然的なものであるわけだが、他方で、それ自身が自らの諸々の原因とともに、ひとつの自由は<原因>にも送り返されるのであり、この行動ないし結果はこうした原因の表徴ないし表現であるのだ。自由な原因は、決して自らの内にその結果を待つことはない。なぜなら、自由な原因の中には何も到来しないし、何も始まりはしないからである。自由な因果性は感性上の結果以外の結果をもたらさない。ゆえに、自由な因果性の法則としての実践理性は、それ自体が、「諸現象に対して何らかの因果性をもつ」はずである。(P82-83)

われわれは、自然と自由に、感性的自然と超感性的自然に対応する二つの立法行為、したがって二つの領域〔domaines〕が存在することを知っている。しかし、ただひとつの領土〔terrain〕、つまり経験という領土しか存在しないのである。(P83-84)

道徳法則は、直感ならびに感性の諸条件から完全に独立している。つまり、超感性的<自然>は、感性的<自然>から独立している。諸々の善も、それ自体、それらを実現するわれわれの物理的能力から独立しており、それらを実現する行動を意志する道徳的可能性によって(但し論理的な吟味に一致する仕方で)規定されているに過ぎない。しかし、道徳法則は、自らのもたらす感性上の気血から切り離されれば何ものでもないことに変わりはない。自由もまた、自らのもたらす感性上の結果から切り離されれば何ものでもないことに変わりはない。(P85)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)