【読んだ】小泉義之『あたらしい狂気の歴史』

あたらしい狂気の歴史  -精神病理の哲学-
▼大前提として著者は、狂気を肯定し、おそらくは期待もしている。しかしその狂気は、かつての左派知識人が期待を込めたものとは違うと。かつて、狂気は言語の問題として捉えられ、知識人はそこに人間解放の夢を見た。しかし、現在の狂気(とされているもの)は行動の問題としてあり、著者はそれは「行動の狂気」と呼ぶ。それは昔からいた「困った人」であり、スペクトラム化とは要はこの「困った人」を精神医療の範疇に収めるためのものだと。論文集なので論拠は多岐に渡るのだけど、この話の筋は一貫している。

▼精神医学は現在、危機にある。それは、現在顕在化しているのは、司法の目にも医療の目にもかからない狂気、すなわち「継続的な狂気のシーニュを発しているのに社会生活に適応して暮らしている人間と、日常的に常人として暮らしているのに突発的に狂気のシーニュを発しながら自傷他害に走る可能性をもつ人間 」(P127)だからである。社会防衛の対象として扱う事ができない彼らをなんとか精神医療の範疇に収めるべく採用されたのが、ハーヴェイ・クレックリーによる「人格障害=パーソナリティ障害」である。

▼かつて病院への隔離が主だった精神医療は現在、福祉工場やグループホーム等々、社会の中に治療が遍在する体制へと移る過渡期である。現在の社会が経験しているのは、精神病院への隔離以前の状態、すなわち「精神のダイバーシティクィアネス」である。

▼著者の批判の矛先は、かつて精神病院の解放運動に携わった精神科医に向く。精神科医は精神病棟の解放を訴えながら、実際には精神病の定義と対象の範囲の拡大を通じて、ポストの確保と増加を試みた。確かに(一般に考えられているよりもずっと遅れてではあるものの)大規模病院体制は脱しつつあるが、そこで言われた「病院から社会へ」というスローガンは「社会の病院化」である。そこで行われている事、例えば認知療法は、最早治療ではなく「徳育感情教育」であるとする(P151)。それは労働者の質の向上という国家的な思惑と共犯関係にあるとはいえ、むしろ医療化を進めているのは精神科医であり、国家の方が謙抑的である。

▼知識人はといえば、かつては狂気の解放を通して「人間の基礎的な真理を明るみに出」そうとし、フーコーはこれを「人間論的円環」と呼んだ。しかし、例えば芸術家による狂気の作品化は、「安全な見世物」「薄められた偽薬」として狂気に市民権を与えることになった。こうして人間論的円環は1970年台に破れたが、それはすなわちマルクス主義精神分析といった、かつての左派知識人が拠り所にしていた人間観の破綻であった。

▼現在顕在化されている「狂気」は、かつての知識人が期待していたものとは別のものである。この辺はよくわかっていないのだけど、おそらくはラカン精神分析に典型的な様に言語の問題としての狂気を捉えるのではなく、経験的に行動の問題として狂気を捉えられている、という事かと。問題の対象としてあるのは、社会を根源的に転覆するような事ではなく、社会や場の秩序を軽く掻き乱し混乱させていくような事である。著者はフーコーのパレーシアの議論を引きつつ、「生存のスタイル」として彼らを肯定しなければならないとする。で、ここがすげえなと思ったんですけど、頻繁に言われるような「集団の空気を読まない人」云々はもとより、ヘイトスピーチに勤しむレイシストたちやイスラム国の人たちを肯定しようとする(確かに彼らのテロリズムがもたらすのは、社会全体の転覆というよりは、社会の中に暴力を遍在化させる事である)。

あたらしい狂気の歴史  -精神病理の哲学-

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