【読んだ】伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)
▼「情報」と「意味」の違いについて。「情報」が客観的でニュートラルなものであるのに対し、「意味」とは「情報」が具体的な文脈に置かれた時に生まれるものである(p31−32)。おそらく本書は、個人の身体(と環境のコミュニケーション)を文脈として捉えた上で、そこで生まれる「意味」の多様性を読み解くものかと。強調されるのは、ここでの着眼点が福祉的な観点とは別だという事である。ここで言う福祉的な観点とは、視覚障害(という呼び方を本書は肯定する)を「情報」の欠落と捉えた上でその欠落を補完しようとするものであり、本書はこれを志向するものではないと。異なる感覚構造を持つ人々の世界認識を紹介する事を通じて相対化されるのはむしろ晴眼者の身体であり、おそらくは更に加えて、個々の身体の感覚(スケールとペースとパターン?)が可塑的であり変容可能なものである、という事をソーシャル・ビュー等の試みを通じて描き出す点が肝なのかと。

▼とりわけ面白かったのが、「視点」に関する分析。見える人の場合、モノの認識が「どこからみるか」という「視点」によって規定されていると。それは例えば「表/裏」と言ったように、空間や面にヒエラルキーを作ると。それに対して先天的に目が見えない人の場合、「表/裏」にヒエラルキーをつける感覚がないと。見える人には常に、視点によって生まれる死角が存在するけれども、見えない人にはそれがないと。また、視覚を前提にした文化イメージにおいては奥行のあるものを平面化する(三次元を二次元化する)特徴があり、見える人のモノの見方はやはりこれに規定されて(しまって)いる。そのため、見えない人の方が見える人よりも「物が実際にそうであるように(≒概念的に)理解している(p68)」と。

▼本書の序盤でユクスキュルが紹介されるのだけど、言わずもがなこの本は、身体と環境の関係への関心に基づいて書かれたものなんだと思う。ポリコレへの批判等も出てくるものの、恐らくは純粋に、著者の専門であるところの美学の本なんだろうなと。即ちそれは、人間の知覚の構造と制度を相対化し続ける作業なのではないかと。