【読んだ】吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)
■主張としては、「文系学部は必要、なぜならば文系は「役に立つ」から」というもの。

■ただし、一連の文系廃止騒動に関しては、メディアやら文系の教員やらが神経反射的に安倍や文科省の批判に走ってるのはホントにダメで、そもそも「文系不要」の素地は前から着々と進んでいたと。国立大は独立法人化以降の予算の仕組み(運営費交付金の減少と競争的資金の割合の増加)の下では理系の方が予算は取りやすいのは明白で、むしろ「文系なんとかせなヤバいで」という話は前々から文科省から出てたと。

■ついでに「文系=教養」を前提にしてる人も多いけどそれも誤解で、そもそも文系って専門知やろが、と。「教養」にしたってそもそも文系教員もその定義をよくわかってないと。「リベラルアーツ→教養教育→一般教育→共通教育」という変遷の歴史とかも見つつ、一般教育がなし崩し的に崩壊した過程とか見たりとかしていた。

■で「文系は役に立たないが価値がある」という論法を立てる文系擁護派もいたけどやっぱそれはダメで、「文系は役に立つ」と言わなあかんで、と。むしろ問題は、「理系は役に立つ(or 儲かる)が文系は役に立たない(or 儲からない)」という通念で、それは戦前くらいからかなり連続して作られてると。

■じゃあ「役に立つ」とはどういう事かっていうと、役の立ち方って2種類あって「目的遂行型」と「価値創造型」があって、前者が短期的に答えを出す事を求められるのに対し、後者は「長期的に変化する多元的な価値の尺度を視野に入れる力が必要」だと。で、ものすんごい大雑把に言って、理系は前者が得意、文系は後者が得意だと。ついでにキャッチアップ型産業だった日本って後者で大成功したけど、それじゃいつまでも後追いだよね、と(この辺は職能主義と職務主義の違いとか、日本の企業文化にも繋がる話かと)。

■本書の後半は文系/理系の別を問わず今って大学そのものが危機だよね、という話で、少子化なのに大学新設され過ぎてる問題とか色々指摘しつつ、カリキュラムとか入試制度とか学生の構成とか色々変えてこ、と。

【読んだ】東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

ゲンロン0 観光客の哲学
■実は論旨はシンプル。西洋哲学がヘーゲル(シュミット、アーレント)的な「成熟」した人間観を志向した結果、リベラリズムは失墜し、コミュニタリアニズム(トランプ的ナショナリズム)とリバタリアニズム(金融エリート的な欲望に基づくグローバリズム)が同時に存在する二層構造になったと。ここでリベラリズム的なドグマとしての「他者」など成立せず、IS的なテロリズムも生み出した。この袋小路を打破するのに「観光客」というコンセプトは有効やと。観光客とは、「(ネグリ-ハート的なグローバルな権力としての)帝国の体制と(旧来の)国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在(P155)」だと。観光客である事は、「無責任である事」「偶然性に開かれている事」を伴う。哲学史を振り返りつつ、カントやヴォルテール、ルソーやローティの中に、実は観光客に繋がる契機が含まれていた事を明らかにする。

■ってな具合にガッツリ哲学の本だし、哲学史の読み解きへの納得感もハンパない。ただ多分本書の1番の特徴は、哲学史と並行して、二次創作論や文学論やサイバースペース論等々をパラレルワールド的に動員しつつ、論旨を裏づけていく構成にあると思う。そこで持ち出されるパラレルワールドがほぼこれまでのあずまんの仕事の集積によって構成されており、それがこの本を「集大成」と言いたくなる所以かと。これをワンダーランドと揶揄するのか、あるいは「遂に東浩紀が自分の仕事の集積の上に、(パフォーマティブにも)誰にも邪魔されずに倫理的な誠実さを死守するための言論世界を作り上げた」と感動を覚えるのかは別れる所でしょう。僕は、袋小路に陥った今の社会運動への視座には共感したし、ふつーにすげーと思いました。

■…ってな感じでいいの?(びくびく)

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

【読んだ】『最後の資本主義』ロバート・B・ライシュ

最後の資本主義
■ストーリーとしては、、、
【1】今のアメリカの市場はルール設定において超富裕層に超有利だと。要はロビイスト雇う金がある激烈少数派がやりたい放題で、例えば著作権70年的な話が国内的にも国外的にも腐るほどあると。結果として、富の配分が上から下ではなく、下から上への流れで起こっとると。はい、階層固定っすね、と。因みに市場と政府って二項対立で考えてもダメで、結局市場の仕組みって権力配分(=政治)に規定されるんやで、と(この辺は少し説明の解像度下げてる感あった)。
【2】能力主義メリトクラシーっていう訳語も一瞬顔をだすけど、勿論日本的な意味ではなく、労働の対価が能力を反映する、位の意味)はもはや幻想やと。それは組合が完全に構造的に骨抜きにされてるからで、それも経済構造の変化ってよりは大企業の意向っすよねと。
【3】全米の中間層よ団結せよ、と(違。とりあえず株主様々モデルとか止めさせて企業のガバナンスちゃんとさせる辺りから始めようか、っていう。
【4】ついでにAIが代替するのってルーティーンワーカーじゃなくてシンボリックアナリスト(©ライシュ先生)なので、大卒とかますますキツいで、BIでも用意しようや、と。

■つまり基本的に「良い資本主義」と「悪い資本主義」という見立てを立てた上て、現状は後者であり、当たり前だけど前者を目指すべき、という事かと。

■上梓されたのが2015年なので、トランプが勝つのよりは前。読んだのは今のアメリカの感じってどんなんなんやろと思ったからなんだが、状況分析というよりは、アメリカ国内中間層の政治的無力感を受けて明確に政治参加を鼓舞してる感じ。運動のベクトルは違えど、OWSとか、あとはエリジウムとかタイムとかちょっと前のハリウッドのSF映画にこんな話多かったっすよね。因みに僕は両者共に映画としてはあまりノレなかったんだけど、正直この本も読み進めるのはツラかった。無論これは読む側の問題で、海外の人がシンゴジラまどマギも全然面白がれない、ってのと同じ感じかと。構造は共有しているけどディテールを共有していない感じ。

最後の資本主義

最後の資本主義

【読んだ】千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』

勉強の哲学 来たるべきバカのために
■勉強とは「アイロニー=ツッコミ=根拠を疑う事」という縦の軸と「ユーモア=ボケ=見方を変えること」という横の軸の双方を拡大する事だと。とはいえ双方ともに拡大し続ける事は不可能で、有限化が必要だと。ここでアイロニーを強制的に切断するのが「決断主義」なんだが、それは他者への絶対的な服従なのでやっぱあかんと。従ってアイロニーをユーモアに転化する事が必要だと。でもやっぱユーモアの軸もどこかで切断をせねばならず、そこでは個々人の享楽を使う(=バカになる)といいと。ただ、享楽的なものも変化可能なもので、そこでの切断は「仮固定」みたいにイメージしておくと。で、その享楽的なものを相対化するのに年表とか作ったりするのが有効なんやで、と(P145-P167辺り)。

■色んな読み方に開かれている本だと思うけど、僕はかなり自意識をエグられつつ、元気が出たなー。潔白主義的に物事を捉えすぎたり、関心が派生しすぎたりして具体的なアクションを起こせない感じは結構昔からツラかった。例えば宮台真司が言った感染同期とかってのはまさにアイロニー決断主義的に切断する作法だと思うんだが、やっぱりそれは「強さ」が必要だ(し、どこまでも説教でしかない)よなあ、とか思ってたので。年表を作るとか、ノートを記録ではなくアイデア出しに使うとかってのは、道具として「外部化」を使うって事だと「理解」したけど、なかなか偶然性を信頼できない自分の癖を直すのにこれは結構マジで使えそうだと思った。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

【読んだ】白波瀬達也『貧困と地域 あいりん地区から見る高齢化と孤立死』

貧困と地域 - あいりん地区から見る高齢化と孤立死 (中公新書)
■同じく中公から出てる『社会とは何か』という新書にある通り、「社会」とはシステムではなくてプロセスなんだな、という事を強く感じた。無論、あいりん地区の状況が政策の帰結として生まれてきた側面も無くはないんだが、同時にどの場面でも混在する様々なアクターの働きによって(例えばドヤ街としての純化や暴動を含め)状況が生み出されていく、ある意味ではダイナミズムがあるんだと思う。

■特にバブル崩壊以降増加した高齢単身世帯への対応は、のっぴきならない状況の中で、何とかそこにあるものの中で最適解が模索されるプロセスが見れる(反面それはちょっとした状況の変化に左右される不安定さもあり、やはり統合は必要だと。筆者は西成特区構想については両義的なんだが、そこでもボトムアップのプロセスが確保されている事が必要条件だとする)。筆者が言う通り、この先貧困が偏在化する事が確実な日本であいりん地区が課題先進地となるのは間違いないんだが、しかしここでの取り組みは、ある意味では濃密な「社会」の厚みが不断に形成されてきた事で可能になっている様にも思う。従ってやがて各地で顕在化する貧困の問題においても、各々の地域ごとの「社会」の厚みが本当に切実な問題になると思う。

■無論筆者もジェントリフィケーションやパターナリズムの危険は指摘していて、例えばあいりん地区ってやっぱり匿名的で流動的な人間関係が生きやすさをもたらしてもいたんだけど、包摂がもたらす管理的な側面が匿名性を剥奪してしまうというジレンマもあると。ここに丁寧に取り組む必要がありつつ、しかし同時に、迅速さも求められる喫緊な局面でもある事は想像に難くないですよね。

社会とは何か―システムからプロセスへ (中公新書)

社会とは何か―システムからプロセスへ (中公新書)

【読んだ】森山至貴『LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門』

LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)
■お題目としてではなく、各論に至るまで「学問知なめんな」というコンセプトが一貫してるのが痛快。冒頭、差別や暴力の問題について「道徳」や「良心」の問題として扱われがちな事を批判し、知識に基づいた判断や行動が必要であると指摘される。無論それは個人の想像可能性の限界等々を見据えた要請というのもありつつ、クィアスタディーズが不断の学問知の議論の積み重ねの上にある事にもよっているかと。なのである意味では学問の有用性の証明を意図してるようにも見える(「学問が意義を持つと主張するためには(P18)」「議論がうまくいけば、[…]重要な論点があることを指摘できるはずです(P158)」等々)。大仰かもしれないけども、ある種メタ的な位置取りをしつつ、同時に切実に、戦略的な方法論とポジショニングの選択をする感じはサイード(=グラムシ)が言う所の有機的知識人の振る舞いを体現している様にも見える。

クィアスタディーズに至るまでにはレズビアン/ゲイ・スタディーズやトランスヴェスタイトトランスセクシュアル、トランシュジェンダー等々様々な運動があると。各運動の中で生じた問題点を解決するために不断に別の概念が生み出されていく感じは、かなり「発展的な」歴史に見える。例えば「同性愛」や「トランスジェンダー」の概念の形成は社会からの抑圧の道具として使われる一方、それによって当事者のアイデンティティの形成にも繋がり、コミュニティの社会運動の形成にも繋がったと。しかしアイデンティティに基づくコミュニティの形成は、同時に排他性を伴ってしまい、また、HIV/AIDSの問題はアイデンティティの獲得をもっては対応できない事態をもたらしたと。そういう問題点を見据えた上で生まれたのがクィアスタディーズだと。

【読書メモ】『ドゥルーズの哲学原理』(随時修正してく)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

■超越論的経験論について
【カント的な主体の「発生」への視座】
・カントは経験の条件として、超越的領野たる主体を論じたが、しかしその主体の「発生」については論じなかったと。
ドゥルーズはカントが批判したヒュームに発生の問いを見出す。ドゥルーズはヒュームの経験論とカントの超越論を綜合し、超越論的経験論を論じたと。そこでは経験の条件の発生に際して他者の存在が論じられる(無人島)。

ライプニッツの「出来事=特異性」について】
ドゥルーズにとっての超越論的なものとは、ライプニッツが論じた「出来事=特異性」である。
ライプニッツによれば、出来事は個体の発生素である。「そこに現れるのは、すべてが主語から演繹されるような固定的な世界ではなく、すべての主語(主体)が動詞(出来事)の作用の痕跡としてあり、出来事が到来するその到来そのものが集積されて世界をなすような流動的な世界である(P62)」。
ドゥルーズによれば、ライプニッツは出来事の系列と分岐について論じたが、結局は過去に遡及して出来事を論じたため、現実を肯定する論理にしかならなかったと。いやいやそうじゃなくて「問われるべきは現状から出来事へと直接に向かう動的生成(P63)」ちゃうんかと。「出来事というこの発生素を、現実世界への奉仕からから解放すること(P63)」。

【微細表象論について】
「出来事の系列論は、系列の分岐と排除によって発生を説明していた。微細表象論は、分岐や排除を前提することなく発生を説明するためのモデルになる(P66)」

【<可能性と実在性>、<潜在性と現動性>】

フロイト精神分析について】
フロイト精神分析や自我の考察を通じて(カントが論じなかった)主体の「発生」を論じた
フロイト的な自我の発生
 →快原理を求めるエスに対し、快を延期する現実原理を担う自我が生じる。
 →ライプニッツの微細表象論とフロイトの自我論の関係。(P70-P71)
・局所的自我と大域的自我
 →微細表象的に局所的自我を捉える
・快原理の発生について(P72-P73)
タナトスの発生の原因(P74-75)

■思考について
【『プルーストシーニュ』】
→思考は強制によって発動する。
→思考をもたらすものが「シーニュ(しるし)」である。
→思考は主意主義的ではなく、非主意主義的だと。

シーニュを読み取る訓練】
→学びの理論。問いと問題。問いと異なり、問題への解はそれを規定する諸条件によって変化する(P104)
→従って「潜在的な諸要素から成る〈理念〉としての問題、それに直面し、自分なりの仕方でそれへの対応を図ることが「学び」に他ならない。それに対し、「知る」とは、問題が発する問いについてすでに提示されている解決規則を手に入れることにすぎない。だから、学ぶにあたっては、問題(〈理念〉)がどう構成されているのかを、各自が各自の仕方で洞察しなければならないだろう(P105)」。

【「反復」と「習慣」】
→「反復されるものは一つ一つ全く異なったものである。完全に同一の行動が繰り返されることはないし、完全に同一の事態が現れることもない。その意味で、反復は毎回が交換不可能、置換不可能である。習慣は、そうした一つ一つが交換不可能、置換不可能である経験の反復から「何か新しいもの、すなわち[…]差異を抜き取る」ことで成立する(P91)」。
→<反復と習慣>は、<自動的再認と注意深い再認>、<運動イメージと時間イメージ>に対応する。
→「あらかじめもっていた企てによって発揮される主体性(第一の主体性)は、物事を既存の知覚の体制に沿って再認するにすぎず、少しも新しさをもたらさない。物事の変更につながらない。既存の知覚の体制を破壊するような知覚との出会いこそが、〈物質に付け加わる主体性〉(第二の主体性)をもたらす。」113

・え、じゃあドゥルーズって「失敗を目指せ」って言ってんの?無理ゲーじゃね?っていう。

ラカンについて(※こっからDGパート)
【構造と機械】
→構造 一般性の次元 習慣
→機械 特殊性の次元 反復

ラカン精神分析について】
ドゥルーズは、ラカンフロイト)が単一の欠如、原抑圧から主体を論じている点を斥ける
ドゥルーズは一回性の出来事を起点とする生成モデルを認めない
→故にオイディプス・コンプレックスも認めず、反復こそが抑圧を生むとする。153

微分と異化】
→よくわかってないけど、構造内の差異を生み出すのが「微分」で、その中からある構造が現動化するのが「異化」かと。「前者(微分的)は、或る項が他の項から区別される差異としての力を持っていることを意味する。後者(異化)は、他から区別される形であるまとまりが生成していく過程を形容する(P65)」。
→多分この辺は檜垣立哉の『ドゥルーズ入門』、小泉義之の『ドゥルーズの哲学』に詳しいかと。

構造主義は主体を消し去るのではなく、別の仕方で主体を定義する思考である。

フーコーについて
【言説的編成と非言説的編成】
それまで言説的編成を扱っていたフーコーは、『知の考古学』以降(具体的には『監獄の誕生』と『知への意志』)に於いて非言説的編成を扱う。しかし、フーコー自身は非言説的編成について積極的な意味付けをできなかった。ドゥルーズは、フーコーの議論の中にある言説的編成と非言説的編成を見出した上で、二元論に陥らず、両者の繊細な因果関係を読み解く。

【「ダイヤグラム」について】
権力は特定の階級の所有物ではなく、拡散して存在する。権力はそれだけでは潜在的なものであり、「知」という硬い形態を経由する事で作用する。この権力(非言説的編成)と知(言説的編成)が協働する様をドゥルーズは「ダイヤグラム」と呼ぶ。

【権力から欲望へ】
フーコーは権力論の枠組みでものを考えたが、そうである以上、常に知は権力によって決定されている事になる。従って、フーコー自身の「知」も袋小路に陥らざるを得ない(209-210あたり。この辺も自信ない)。『知への意志』の問題点。『監獄の誕生』に於いてはダイヤグラムの概念で優れたミクロ分析を行なったが、「生-政治」の概念は権力を「マクロ/ミクロ」という対立の次元に回収してしまう。
ドゥルーズは、やはり権力についても「発生」を問わなければならないとし、権力は欲望のアレンジメントによって発生するものだとする(「権力とは欲望の一つの変状である)」。
→つまりドゥルーズは権力ではなく欲望を持って社会を描こうとすると。