【読んだ】國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)
■多分、日本のドゥルーズ受容って、良くも悪くもセゾン的というか、消費社会文化的に紹介されたイメージをずっと引きずっていたんでしょうね。なのでドゥルーズの入門書や解説書ってパフォーマティブにその思想を展開するものが多く、良く言えばスリリング、悪く言えば掴み所がなく(時には滑っていて)、無論それが「ドゥルーズ的」だとも言えなくはないんだが、しかしこの本は敢えて徹底的に「哲学」という「学問」の中でドゥルーズを紹介する事を意図したんだと思うし、それは相当画期的なのかと。

ドゥルーズがやったのは徹底的な過去の 「哲学」の読み直しで、ヒュームやカントからフロイトラカンに至るまで膨大な哲学の蓄積が前提になってると。従ってドゥルーズの思想を「理解」するとなれば、膨大な前提知識と、更にそれに対するドゥルーズの読み込み方の双方を知る必要のが必要なんですが、それを一冊でやってしまうのがこの本かと。明快な「理解」が得られる方法論である一方、凄まじい濃密度なのでかなりの疲労感(ただし相当気持ち良い)にやられる感じ。こう言うと「退屈な優等生(©浅田彰)」っぽくも聞こえるかもしれないけど、いや寧ろ「凄み」を感じますよね。

■レジュメ切りたい。ラカンの話はやっぱよう分からんので入門書読み返したりした。

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

【読んだ】水野祐『法のデザイン 創造性とイノベーションは法によって加速する』

法のデザイン?創造性とイノベーションは法によって加速する
■リーガルデザインというコンセプトについて。法を規制や創造の阻害要因と捉えるのでは無く、寧ろイノベーションを加速するための適切な環境設計と捉えるべきだし、(大陸法的と言われる日本においても)今までも実はそうやったんやでと。加えて既存の法体系が状況とミスマッチを起こしがちな状況においては、現状追認的な法整備ではなく(「法の遅れ」と言うらしい)、「余白」を意図的に作っとく事が有効やと。で、ITやネット云々に典型的な様に、既存の法では対応できない様なグレーゾーンが広がってる今がチャンスですよ、と。

■ただ、一般向けの啓蒙書かっていうと多分それもちょっと違くて、↑の様なマニュフェスト的な話は最初の数十頁で済ませ、その後は「音楽」「アート」「写真」みたいな分野ごとに、今のトレンドをひたすら紹介していく構造。各論については面白がれるものも面白がれないものもあったし、正直「今これがイケてる」的なものを延々みせられた印象もある。もっとも「イントロ」の末尾にも書いてる様に、やっぱ所謂クリエイターや「その筋の人」に向けてる感じがしたし、同時に「誰でもクリエイターなんやで」とはまだまだ言い切れないんだな、とも感じた。

■個人的に膝を打ったのは、ティルマンスみたいな抽象写真が流行っているのはウェブ上での写真氾濫に伴って肖像権意識が変化したからとか(写真)、現行の建築基準法がリノベーションに対応しにくいのは「ハードを信頼し、ソフトを信頼しない」という世界観に基づいているからとか(建築)、マイナンバー制度ってクソだし監視権力のミクロ化でもあるんだが、一方ではこれまでの個人把握のツールだった(家制度の名残たる)戸籍制度を事実上無効化するかもとか(家族)、まあ色々あった。

法のデザイン?創造性とイノベーションは法によって加速する

法のデザイン?創造性とイノベーションは法によって加速する

【読んだ】福間良明『「働く青年」と教養の戦後史』

「働く青年」と教養の戦後史: 「人生雑誌」と読者のゆくえ (筑摩選書)
■多分今自分がやってるのって「読書と勉強の間くらいの事を勝手にやる」って事なんだが、やっぱそれ良いな、と思った。本書は、戦後、特に地方から集団就職で上京した若者の間で読まれた「人生雑誌」について分析するもの。竹内洋が析出した様なエリート的教養主義に憧憬を抱きつつ、同時にその反発から独自の教養文化と読者共同体があり、それを「反知性主義的知性主義」と名付けて分析する。それは貧困と劣悪な労働環境の中で、階層上昇への憧憬と諦念の混じり合いの中で生じたんだが、高度成長に伴い労働環境も進学率も改善し徐々に衰退していく。

■多分、エリート的な教養への憧憬が消滅した理由は階層上昇が可能になったからではなく、階層構造を固定化したまま所得が底上げされたからなんだと思う。この辺は吉川徹の『学歴分断社会』を読み直したい。その後読者共同体に変わったのはラジオの深夜放送とかなんだろうなあ。因みに最後に現在の状況との比較があり、「反知性主義」(と呼ぶ事自体どーなのって話もしてるんだが)との違いとか指摘される。個人的には、コンテンツが売れなくなった時に実利的かつ高齢者を狙える健康モノに舵を切る、という顛末がまさに今起こってる事と重なってアレ。

学歴分断社会 (ちくま新書)

学歴分断社会 (ちくま新書)

【観た】chim↑pom「The other side」

無人島プロダクションchim↑pomの個展「The other side」を見てきた。アメリカ国境スレスレにあるメキシコの民家を訪ね、住民と交流しつつツリーハウスを作るドキュメンタリーと、その映像を軸にしたインスタレーション作品。↓
MUJIN-TO Production

■インスターレーションでは、ツリーハウスから遠景で捉えた国境壁の映像と、その遠景の中で国境に面して色々と悪巧みするchim↑pom及び地元の子供達の姿をアップで捉えた映像が対比的に見せられる。

chim↑pomが一貫して扱っているテーマのひとつに、映像メディア報道みたいなステロタイプな表象と、実際にその現場に息づく人の生き生きとした生態を前にした時の、リアリティのコントラストみたいな事があると思う。例えば震災後ならそれこそ「気合い100連発」がそうだし、それを強烈な身体感覚の喚起に寄せれば「ともだち」や「被爆花ハーモニー」になるし、コンセプトを純化させたら「Ellie vs Hollywood」とかになるんでしょう。そしてそれはとってもスリリングなものではあるんだけど。

■で、今回の「The other side」、遠景とアップの映像の対比という構造は、このテーマにそっくりそのまま乗ってると思う。でもちょっとそれが物足りないというか、「手クセ感」というか、映像の生き生きした感じがテーマに回収されて殺されてしまっているというか、そーゆー印象を持った。国境線というトピックは今超ホットなものだし、国境線の遠景の映像の迫力も凄いし、子供とかおばちゃんとかとのやり取りもほっこりするし、壁を実際によじ登って越えたり穴掘ってみたりと超面白そうなんだけど、なんか「見慣れた感じ」に回収されてしまう。

■例のヒロシマの本でchim↑pomのリーダーの卯城さんが、「ヒロシマの空をピカッと光らせる」というアイディアについて、「1、ヤバそう」「2、バカっぽそう」「3、意義深そう」という3つの条件が兼ね備わっていたと言ってるんですけど。今回の「The other side」に関して言えば、「1、ヤバそう」と「3、意義深そう」は満たしているんだけど、「2、バカっぽそう」の感じが欠落している。もちろん、だからダメだって訳ではないんだけど、「アイムボカン」とかで爆発の度に底抜けに笑っちゃう感じとか、「エリゲロ」でふとコールが止んだ時にドン引きしてしまう感じとか、そういう身体感覚を起爆させる材料がなくて、普通にハートウォーミングなドキュメンタリーになっている気がする。とはいえそういう「2、バカっぽさ」って多分、現場で生じたコミュニケーションや出来事に合わないやり方で無理にこじつけるとそれはそれは寒々しいものになるんだろうから、まあ難しいんだろうな、と。

■もちろん、例えば「ブレイキング・バッド」とか「悪の法則」とか、今のハリウッド制作コンテンツでのメキシコ表象ってトランプ云々の前から既に「ヤバさのインフレ」みたいになってたので、安心感の方に振り切る事がむしろ「新鮮」に映る契機はあると思う。しかし、ブレイキング・バッドも悪の法則も、どっちも露悪的ではあれど残念ながら超面白すぎてしまったので、それを相対化させる様なフックがもうちょっと強烈に欲しかったな、というのが無いものねだりな感想。

■つか、エリィちゃんがアメリカに入国できない理由って「I’m sorry U.S.A.」でパクられたせいかと思ってたんだけど、なんか違う理由があるんですね。

なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか

なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか

SUPER RAT

SUPER RAT

【読んだ】森村進『自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門』

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)
■確認したい事があって読み返したんだが、ジャンプの漫画みたいな本だと思った。最初に勇者たるリバタリアニズムをキャラ設定し、「遺産相続」とか「司法制度」とか「婚姻制度」とか諸々のフィールドに勇者を持ち込み、RPG的に仮想敵(リベラリズム等々)を倒してく感じ。だからどこから読んでもそれなりにスリリングなんだが、ちょっと「箇条書き感」があるのと、あと勝利のロジックが結構強引だったりもする。

■で、肝腎のキャラ設定たるリバタリアニズムの根本理念としては「自己の身体、及び自己が価値創造したものへの所有権」を侵さないという「自己所有権テーゼ」が通底してる。従って自己所有権の権利保護のためであれば、国家等々によるある程度の介入もやむなしとしてる(P86、P196あたり)。

■ただ本文中にもある様にリバタリアリストも一枚岩ではなく、著者自身は結構現実的な線でロジックを立ててると。そもそも以下の橋本務の言及の仕方見ると、自己所有権の捉え方も結構特徴的なのかもとか思う。
https://goo.gl/6v8uHi

■あと、自己奴隷化や環境保護の所の「(自他問わず)未来と現在の権利者は別人格」ってのは結構ユニークなのかも。

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

【読んだ】小泉義之『病いの哲学』

病いの哲学 (ちくま新書)

■感動的ではあるものの、どう判断すれば良いのかには迷う。冒頭で示される通り、本書は「生と死」という二分法を批判し、その間にある「病気の生」「病人の生」を肯定して擁護するもの。前半部ではソクラテスハイデッガーレヴィナスが「死に淫する哲学」として批判され、後半では病人の生を肯定するために、パスカルガブリエル・マルセル、ジャン・リュック・ナンシーが議論され、更にそれをプラクティカルな次元で考えるために、パーソンズフーコーが合わせて紹介される。

■「死に淫する哲学」について。哲学においては伝統的に「死」を考え続けていたけれども、その系譜がソクラテスの「死」と、刑死を受け入れたソクラテスの死生観に端を発する事を指摘される(牢獄としての肉体、肉体から魂が欠如する瞬間としての死)。それはハイデッガーレヴィナスに連なる「善き死」や「肯定されるべき犠牲・献身」の議論に続くと。ソクラテスにとっては神が、ハイデッガーにとっては共同体が、レヴィナスにとっては人間が、死を意味づけるものとして要請されるんだが、それは即ち「死ぬ瞬間だけは真・善・美を手にする事ができるという信仰」だと。

■他方、病人の生についての議論は、痛みや病苦、希望、不随意運動等々を軸に展開される。病人の回復とは必ずしも最良の状態を求めることではなく、変化した肉体が別の状態として完成して落ち着く事だと。この回復への「希望」は計算不可能な原理であり、医療行為を当てにするものではない。しかし医療はこの希望に賭けるからこそ、患者を延命しなければならない。また、この新たな肉体の状態を希望する上で重要なものが「不随意性」で、そもそも人間の自由は根源的に不随意性に支えられていると。従って随意運動が失われたとて、不随意な身体を守り続けなければならない。フーコーが『臨床医学の誕生』で論じてたのは実は、病理解剖学は死を通じて「病人の生の豊かさ」を発見した事だったと。

■もちろん病人の痛みや病苦の問題についても論じられていて、パスカルが引かれているのだけれども、ここに対しての回答はあまり理解を出来ていない。それは『生と病の哲学』の各章を読み直そうと思う。

パーソンズを引き合いに議論されるのは、病人の生を巡って、医療がどのように社会的に構築されているか、という事。基本的な前提として、医療制度を社会的に機能させるために、専門家としての医師と、受動的な患者という構図が要請されると。しかし、上述の不随意性や希望の話の通り、医療行為においては決定不可能なゾーンが必ず存在すると。医療の社会的機能の維持のためにはこの非合理的なメカニズムを何かしらの形で隠蔽するもの(呪術)が必要で、かつては医療への信仰がそれにあたっていたと。しかし医療への信仰が揺らいでいる現在においては「善き死」なるものが呪術の機能的等価物になっていると。

■これに抗するためには、病人は病人としての社会的役割を拒否し、「親密圏から離れ、逸脱した集団を形成し、下位文化を形成して、決して呪術を信仰せず、しかし絶対に回復の希望を捨てずに、生き延びる必要がある」とする(P206)。そこでは、「生き延びる事が闘争」だとも言う。この辺については、原則論として感動をしつつも、妥当性を判断するのは難しい。というか正直に言えば、当事者性への配慮(というか、更に正直にいうと事態を「正しく」捉えられないという恐怖やおそれ)から、どうしても何かを言えなくなってしまう。しかし逆に言えば本書は、臨床やケーススタディに基づく現場論を排し、徹底徹尾、哲学的にのみ尊厳死安楽死を論じている訳で、やっぱそれはとても感動的(もちろん本書の根底に「現場」の知見がある事は、あとがきを読めば明らか)。『生殖の哲学』で言われていた彼の信念を思い出す→「私の信条ですが、倫理的に間違えていることは絶対に理論的にも間違えていると信じています。そう信じることが、理論家の倫理だと思います」。

■ところでこの本の最終章で「死を見てしまった生」という言葉を見た時に、もう何年も前だけど、森美術館でやってた「医学と芸術展」で見たヴァルター・シェルスの「life before death」という作品シリーズを思い出した。大きく引き伸ばされた二枚の写真が並んでおり、双方に同一人物の顔のアップが映し出される。片方は余命宣告を受けた病人の死の直前の写真で、片方は死の直後の顔のアップだというもの。例えば、言語的な理解をもって作品を解釈するならば(つまりネットでイメケンした情報として作品に触れる次元では)、死の直前まで尊厳を保ち続けている様に見える彼らの顔の写真は、いわゆる「善き死」の瞬間を捉えている様に見えるし、二枚の写真の並べ方はまさに「生と死の二分法」に則っている様にも見える。僕も展示を観た時には、強烈な身体感覚を覚えながらも、「深遠さで死を演出しつつ、その実、実はスペクタクルに回収しているのでは?」みたいな事を嘘ぶいていた気がする。しかし改めて思い出してみると、巨大なポートレートに克明に写る皺や毛穴や、筋肉同士の微妙な緊張関係に見入ってしまったのは、まさに「生の死に対する特別な関係に置かれた状態(P214)」や「末期の生体の豊かさ(P214)」に見入ってしまったのかもしれない、と考え直した。すなわち、こういう事かと→「死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終わりは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。これが末期の生の実情、そして、生そのものの実情である。だから、病人の生を肯定し擁護することは、生そのものの肯定と擁護に繋がるのである。(P218)」。

病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)

生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー

生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

【読んだ】稲葉振一郎『「資本」論―取引する身体/取引される身体』

「資本」論 ――取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

■結論は「無理してでも「労働力=人的資本」を所有可能な財産とみなし、人々をその財産所有者とするべき。福祉国家が保障するべきは人々の生存ではなく、労働力=人的資本の所有者としての権利やで」って事かと。無論こう書くと「ネオリベやな」と思うし、貧困とセックスワークの話とか頭よぎるし、あと著者自身は身体の可塑性に基づく格差拡大(ライザップ?)とかも書いてるけど、でも現状では概ねこれが最適解よねと。ホッブスやロックから根本から所有の概念の論じ直すのは、書名からも明らかな通りマル経金子勝)への回答だからなのでしょう。

立岩真也読まんとなー。あと、義務教育受けてないのでロックの労働力の所有の考え方再確認しつつ、もっかい論旨確認したい。

■以下、気になった文言をいくつか。

やはり、本当は労働力は財産ではない - 人的「資本」ではないのはもちろん、労働力「商品」でさえない、と考えた方がよいのでしょうか?

問題は、人間と人間ならざるもの=財産たりえるものとを分ける線、というものをどう考えるか、ということでしょう。それは「奴隷」という存在を許容しないため、人が奴隷とされることを、許さないためでもありましょうが、また同時に、人と、人が生きる舞台としての「世界」との間に画然たる線を引くためでもありましょう。人間以外のものたちは「世界」を構成する部材である、というわけです。

より肝心なことは、先に見たようなセーフティーネットが、ただ単に雇用労働者の生存を保障する、というだけではなく、その財産所有者としての - しかも労働力=人的資本という財産の所有者としての権利をも保障するものとして、ただ単に事実として機能する、というだけでもなく、そのように観念されなければならない、ということです。

一般論としては、人材育成、従業員の教育訓練に熱心な企業は「よい企業」である、と言わざるを得ないでしょう。しかしそのような会社=雇い主は、従業員の労働力=人的資本そのものの内容までをも、実質的に支配しかねない存在でもあるのです。

私の考えるところでは、まさに労働力=人的資本を資産として扱うこと、それをあたかもモノであるかのごとく擬制することを、他人に対しても、そしてとりわけ寄寓先の統治権力に対しても要求することは、とても重要な意味があるのです。なぜならそう要求することによって、難民は「私を「剥き出しの生」として扱うな」と求めていることになるからです。

財産権を行使し、財産というモノを使ってこの世界を生きる主体として扱うのであって、裸の動物として扱うのではない、という事です。

本書ではマルクス主義の遺産を真面目に評価しつつ、基本的にはしかし批判的に対しています。マルクス主義の路線をそのまま引き継ぐことはせず、むしろマルクス主義者なら批判するであろう方向の議論を打ち出しています。つまり、資本主義は不平等と疎外を生む仕組みだが、だからといってそれを丸ごと拒絶し、オルタナティブな社会システムを目指すべきではなく、そのうちにとどまるべきだ、と。不平等の中で不利なポジションにおかれ、疎外に苦しむことの大きいであろう霧散労働者階級に対しても、なおその「私的所有」にこだわり、財産所有者として戦うことをこをそ求めているわけです。

しかしポストヒューマン状況においては、このような経済と身体の連動がより一層強まるおそれがあります。つまり豊かな者は優生学的操作やサイボーグ技術によってより高性能の身体を手に入れられ、これに対して貧しいものは相対的にますます劣位に立たされる、という可能性が。