【読んだ】伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)
▼「情報」と「意味」の違いについて。「情報」が客観的でニュートラルなものであるのに対し、「意味」とは「情報」が具体的な文脈に置かれた時に生まれるものである(p31−32)。おそらく本書は、個人の身体(と環境のコミュニケーション)を文脈として捉えた上で、そこで生まれる「意味」の多様性を読み解くものかと。強調されるのは、ここでの着眼点が福祉的な観点とは別だという事である。ここで言う福祉的な観点とは、視覚障害(という呼び方を本書は肯定する)を「情報」の欠落と捉えた上でその欠落を補完しようとするものであり、本書はこれを志向するものではないと。異なる感覚構造を持つ人々の世界認識を紹介する事を通じて相対化されるのはむしろ晴眼者の身体であり、おそらくは更に加えて、個々の身体の感覚(スケールとペースとパターン?)が可塑的であり変容可能なものである、という事をソーシャル・ビュー等の試みを通じて描き出す点が肝なのかと。

▼とりわけ面白かったのが、「視点」に関する分析。見える人の場合、モノの認識が「どこからみるか」という「視点」によって規定されていると。それは例えば「表/裏」と言ったように、空間や面にヒエラルキーを作ると。それに対して先天的に目が見えない人の場合、「表/裏」にヒエラルキーをつける感覚がないと。見える人には常に、視点によって生まれる死角が存在するけれども、見えない人にはそれがないと。また、視覚を前提にした文化イメージにおいては奥行のあるものを平面化する(三次元を二次元化する)特徴があり、見える人のモノの見方はやはりこれに規定されて(しまって)いる。そのため、見えない人の方が見える人よりも「物が実際にそうであるように(≒概念的に)理解している(p68)」と。

▼本書の序盤でユクスキュルが紹介されるのだけど、言わずもがなこの本は、身体と環境の関係への関心に基づいて書かれたものなんだと思う。ポリコレへの批判等も出てくるものの、恐らくは純粋に、著者の専門であるところの美学の本なんだろうなと。即ちそれは、人間の知覚の構造と制度を相対化し続ける作業なのではないかと。

【読んだ】太下義之『アーツカウンシル アームズ・レングスの現実を超えて』

アーツカウンシル アームズ・レングスの現実を超えて (文化とまちづくり叢書)
▼アームズレングスなる原則があると。本書の文脈においてこれは、助成団体たるアーツカウンシルが政府と一定の距離を保つ事を指すと。でもまぁ普通に「え、アーツカウンシルって公的機関っぽいけどそんなんできるん?」ってなるけど、まぁ案の定絵に描いた餅で、今まで一度も実現されたことはなかったいうのを海外の事例の分析を通じて示す。むしろ文化政策の予算増額や総合政策化等々、一見すると望ましい動きがある度にアームズレングスの理念は阻害されていく(政策進化のジレンマ)。この辺は昨年末に訳出された『文化資本』にも詳述されている。

▼本書は、上述の様な現状を見据えた上で、それでもなおアームズレングスなるものを踏まえた制度設計を試みるもの。アームズレングスは具体性を欠いた理想論であるという事を割と最初にゲロった上で、日本版アーツカウンシルやるとしたら日本の特殊性に合わせてこの理念を揉まないとダメだよと。で、日本の政策意思決定構造や地方政治の状況をみるとどうかっていうと、むしろ政策提言とか議会説明とか、政治との密なコミュニケーションの方がむしろ必要なのでは?と。まあ、アームズレングスの本質的なエッセンスを失わず、しかし理念としての揉み込みはもっと必要だよね、という当たり前の(しかしあまりやられてこなかった)話かと。

▼日本の文化行政の現状を分析するにあたっては、当然55年体制的な戦後の経済状況を踏まえないとダメだよ、と。当たり前だけど、90年台の文化施設の建設ラッシュってアメリカからの内需拡大要求に伴う地方債の乱発があって、という生々しい話があると。その上で、これって要は単にハコモノで文化的な動機なんてなかったよね、という事を率直に示している辺りは、政策決定者だけじゃなくて学生とかちゃんと読むべきだと思いましたね。文化政策の議論なりなんなりの話をする中でこの手の話を見ないフリしてる場面って昔からよく見るんですけど、そういうの本当にヌルすぎる。本書の中で、公共ホール(びわ湖ホール)が議会にイチャモンつけられた話が出てくるのですが、おそらくは「真面目に考えとかかないといつでも潰されるぞ」という危機感を筆者が示しているのではないかと思いました。

▼アーツカウンシルの役割について。本書で示されるのは「助成事業」「パイロット事業の実施(ケーススタディの構築)」「調査研究に基づく政策提言」だとする。この内、やっぱり調査研究はめっちゃ大事だよねと。とはいえ、日本で「文化的な動機」ってどこに見いだせるんだろう?というそもそもの疑問は拭えない。

▼日本の文化行政の現状と照らし合わせるならば、例えば指定管理者としてシノギを得てる自治体の外郭団体とかがつまんないことばっかりやってるのとかみると、調査研究の重要性を喚起するのはとても大事なのだと思います。あの人達って「(結果論的な)財政的な安定性」と「専門知のストック」を維持する事くらいしか強みないでしょ。ただ、「いつまでも外郭団体にハコモノ仕切らせると思うんじゃねえぞ」みたいな話自体はよく聞くけど、とはいえその反面、あーゆー連中が一生懸命になってるのって結局行政や議会との関係のメンテナンスなのかも、とも思っていて、その辺の実態はようわからん。

▼なんか、この記事を思い出した。
http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/review/0612_01_03.html

アーツカウンシル アームズ・レングスの現実を超えて (文化とまちづくり叢書)

アーツカウンシル アームズ・レングスの現実を超えて (文化とまちづくり叢書)

文化資本: クリエイティブ・ブリテンの盛衰

文化資本: クリエイティブ・ブリテンの盛衰

【読んだ】清水高志『実在への殺到』

実在への殺到 (水声文庫)
▼物凄く大雑把に言って、思弁的実在論オブジェクト指向存在論、人類学の存在論的転回等々、ここ数年の人文学の潮流は、カント的な主客図式を乗り越えるためにモノと人間の様相(フラットネス)を再考しつつ、主体客体の概念を練り直しているのかと。本書はこの手の話のガイドにもなるのだが、そこに(ラトゥールのANT及び)セールの準-客体論、W.ジェイムズと西田幾多郎純粋経験論等を接続し、よりラディカルな議論が展開する所が肝かと。これによって多分、主体と客体のそれぞれの流動的な側面が強調されるのかな、とぼんやり理解した。

▼下手の横好きが過ぎるかもしれないけども、昔仏教の解説書を読んだ時に「自我を認知の集合として捉える」というような事が書いてあってそれがとても印象に残っていたのだけど、それと近年の西洋哲学の潮流がどう関連するのか、少し興味がある。

▼多分、単に主客図式を否定するのではなく、主と客をアドホックなものとして流動的なもののして捉える、というイメージかと。

実在への殺到 (水声文庫)

実在への殺到 (水声文庫)

【読んだ】勝川俊雄『魚が食べられなくなる日』

魚が食べられなくなる日 (小学館新書)
▼なるほどこれは評判通り面白い。問題化されているのは水産行政の無策っぷりな訳ですが、その分析を通じて、今の日本全体が抱える構造的問題が浮かび上がる。

▼日本の漁業の現状について。日本の海洋資源は枯渇しているが、何ら対策を打っていない。一刻も早く漁獲規制を取り入れろと。適切な漁獲規制によって長期的な漁獲量を確保し、同時に付加価値をつけて産業成長を図るのが世界的なトレンドで、未だに漁獲規制をしてないのは日本くらいやと。で、これはやっぱ国が旗振れよと。あと、補助金は場当たり的な延命にしかならないから減らすべきと。

海洋資源が減った理由は単純に日本の漁業の乱獲だと。じゃあなぜ放置されたのかというと、端的に日本の政策の戦略のなさだと。EEZの設定前、日本は海外国の沿岸で漁しまくったんだが、EEZの設定の後も漁獲規制を行わなかったと。事実上乱獲だった訳ですが、バブルでイキってたので海外から爆買いできたのと、漁協には補助金バラ撒けたので漁獲が減っても問題化しなかったと。

▼でもまあその後は本朝ご覧の有様なので、漁獲上がらない上になり手不足と高齢化で水産業マジでやばいと。加えて中国さんとか実は滅茶苦茶頭良いので多分今のままだと絶対勝てないと。で、ここまで来ても今も水産庁は頑なに漁獲規制をしようとしない訳ですが、その論理はもう滅茶苦茶だと。研究機関も水産庁天下りでズブズブなので、まともな政策根拠も出ていないと。

▼改革ができないのはやっぱ戦後の体制ひきずっちゃってるからだと。昔は業界団体→族議員→水産官僚、みたいな権益構造があっての事だった訳ですが、もはや今は漁協は票田にならず、そもそも代議士もやる気ないので陳情とかすらできない状況やと。まあなので改革するなら業界に体力があった70-80年代だったけど機会逃したよね、と。で、頻繁に言われるようにキャッチアップでのし上がった本朝、制度を変えるのが苦手なので困ったねと。でも今も頑なに守ってるその制度、EEZ以前の公海自由の原則のもとでできた上に、そもそも国が経済成長してるのが前提になってるからマジでなんとかしないと詰むよ、っていうか既に詰んでるよ、と。

▼読む前は、意識高めの皆さまが溜飲下げる感じの本かと思っていたのですが、著者の筆致がとてもバランスがよく、説得力もありかなり好感を持ちました(生意気すいません)。最後、既得権益批判に終始する事を避けている感じがとても良かったです。中国の水産業の戦略の巧さとか、離島の漁業振興と領土問題の関係とか、そういう資源ナショナリズムに寄った人にも目配せが効いていて、なるほどこれは批判のための批判の本ではないな、と感じました。

魚が食べられなくなる日 (小学館新書)

魚が食べられなくなる日 (小学館新書)

【読んだ】橋本健二『新・日本の階級社会』

新・日本の階級社会 (講談社現代新書)
▼要するに経済構造の矛盾が非正規雇用の人に集中してますよ、という割とマルクスさんなお話。定義やニュアンスの説明に色々不足はあるなと思ったんですけど、しかし「階級」という言葉に政治的なインパクトを意図されてるのは明らかかと。ただ同時に著者は、今の政治状況が、現状の階級対立構造に対して明らかに機能不全である事も指摘する。で、その要因が自己責任論だと。

▼紙幅の大半は、2015年のSSM調査の結果分析に割かれている。社会階層ではなく「階級」という言葉を使い、(多分)日本の生産人口を5種類に分類しますよと。その分類が「資本家階級」「新中間階級」「正規労働者」「アンダークラス」「旧中間階級」だと。で、この中で特筆すべきはアンダークラスだと。本書によれば(強調)、アンダークラスとは要は非正規雇用の男女であり、近年急激に増加していると。分析によって明らかになるのは、労働者全体で見た時に個人収入は減少しているものの、正規労働者の賃金は上がっていると。すなわち、労働者の内部でも正規雇用と非正規雇用の格差が開いていると。その結果として生まれているのは、「アンダークラスという新しい下層階級を犠牲にして、他の階級が、それぞれに格差と差異を保ちながらも、程度の左派あれそれぞれに安定した生活を確保するという、新しい階級社会の現実(P80)」だと。で男性の非正規雇用労働者も諸々だいぶ詰んでるんですけど、現在の制度下では、とりわけ女性の非正規労働の人の状況が厳しいと。

▼階層帰属意識について。実際の格差拡大は近年の話ではなく、ここ40年以上進行していると。しかし、近年の変化は「意識の階層化」で、要は「豊かな人々は自分たちの豊かさを、また貧しい人々は自分たちの貧しさを、それぞれ明確に意識するようになった(P31)」と。

▼階級の固定化について。案の定、階級は固定されていて、世代間移動は起こりにくくなってますよと。

▼政治意識について。本書は、「再配分は必要、なぜなら現状の格差は正当なものではなく、また格差を是正しないと社会的な損失がでかすぎる」という明確な立場を取る(従って、政策提言もこの立場に則ってなされる)。その上で、所得再配分への支持を妨げるのは「格差拡大への認識不足」と「自己責任論」のふたつで、厄介なのが後者だと。散々言われてるように自己責任論の根拠ってかなり脆弱なのに、かなりのボリュームの人にこれが支持されていると。

▼で、「格差拡大容認」「自己責任論支持」「再分配反対」の3点セット揃ってるのが自民党ですよねと。ただ、かつてのように「富裕層→自民党支持」「労働者→野党(社会党とか)支持」みたいな明確な構図は崩れてると。あと、「再配分支持で排外主義」みたいな、これまでの政治的対立構図からは外れる人も出てきてると。まあ要するに、単純に「自民党への対抗政党の不在」ですよねと。で、色々階級ごとの政治意識とか見てみると、どの階級にも「格差拡大否定」「自己責任論否定」「再配分支持」の人はいるけど、彼らの受け皿になる政党はないと。なので、リベラル派は階級横断して連携した方がいいよね、と。

▼確かに類型的な筆致は反感を買いやすいだろうな、と思いました。あと、例えば規制緩和に伴う雇用制度の変化の経緯とか、政治経済的な要因の分析はかなり簡略化しているとも思いましたし、各所にある結論だけ取り出すととりわけ新奇な話が強調されている訳でもないとも思いました。ただそれは単に役割分担の話で、「そういう事をする本だから」あるいは「そういう事をする本ではないから」という事かと思います。相関関係の分析と因果関係の分析があった時に、この本は前者に寄った話をしているんじゃないかと。むしろ大規模かつ継続した調査と分析に基づいたエビデンスベースドの話を提示してくれる事には敬意と感謝を向けなければダメだと思います。

▼ただ、とはいえ「本書をとった読者などは、高学歴のホワイトカラーが大部分で、周囲の同僚や友人の多くもそうだろう(P68)」とか、普通に煽りとして下手なんじゃないの、と思う所も結構ありましたね。あと、もしも一般書として出すのであれば、統計的手法がどう位置づけられているのかとか、質的なリテラシーを少し紹介してほしかったとも思います。あと、まあやっぱり「階級」と「階層」の違いは説明してほしかったですね(僕もこの本読みながら復習しました)。多分、本質的にはドライでかなりテクニカルな書籍なのですが、一般読者への色気の出し方はもう少し別のやり方があるんじゃないのかな、とも思いました。

【読んだ】小泉義之『あたらしい狂気の歴史』

あたらしい狂気の歴史  -精神病理の哲学-
▼大前提として著者は、狂気を肯定し、おそらくは期待もしている。しかしその狂気は、かつての左派知識人が期待を込めたものとは違うと。かつて、狂気は言語の問題として捉えられ、知識人はそこに人間解放の夢を見た。しかし、現在の狂気(とされているもの)は行動の問題としてあり、著者はそれは「行動の狂気」と呼ぶ。それは昔からいた「困った人」であり、スペクトラム化とは要はこの「困った人」を精神医療の範疇に収めるためのものだと。論文集なので論拠は多岐に渡るのだけど、この話の筋は一貫している。

▼精神医学は現在、危機にある。それは、現在顕在化しているのは、司法の目にも医療の目にもかからない狂気、すなわち「継続的な狂気のシーニュを発しているのに社会生活に適応して暮らしている人間と、日常的に常人として暮らしているのに突発的に狂気のシーニュを発しながら自傷他害に走る可能性をもつ人間 」(P127)だからである。社会防衛の対象として扱う事ができない彼らをなんとか精神医療の範疇に収めるべく採用されたのが、ハーヴェイ・クレックリーによる「人格障害=パーソナリティ障害」である。

▼かつて病院への隔離が主だった精神医療は現在、福祉工場やグループホーム等々、社会の中に治療が遍在する体制へと移る過渡期である。現在の社会が経験しているのは、精神病院への隔離以前の状態、すなわち「精神のダイバーシティクィアネス」である。

▼著者の批判の矛先は、かつて精神病院の解放運動に携わった精神科医に向く。精神科医は精神病棟の解放を訴えながら、実際には精神病の定義と対象の範囲の拡大を通じて、ポストの確保と増加を試みた。確かに(一般に考えられているよりもずっと遅れてではあるものの)大規模病院体制は脱しつつあるが、そこで言われた「病院から社会へ」というスローガンは「社会の病院化」である。そこで行われている事、例えば認知療法は、最早治療ではなく「徳育感情教育」であるとする(P151)。それは労働者の質の向上という国家的な思惑と共犯関係にあるとはいえ、むしろ医療化を進めているのは精神科医であり、国家の方が謙抑的である。

▼知識人はといえば、かつては狂気の解放を通して「人間の基礎的な真理を明るみに出」そうとし、フーコーはこれを「人間論的円環」と呼んだ。しかし、例えば芸術家による狂気の作品化は、「安全な見世物」「薄められた偽薬」として狂気に市民権を与えることになった。こうして人間論的円環は1970年台に破れたが、それはすなわちマルクス主義精神分析といった、かつての左派知識人が拠り所にしていた人間観の破綻であった。

▼現在顕在化されている「狂気」は、かつての知識人が期待していたものとは別のものである。この辺はよくわかっていないのだけど、おそらくはラカン精神分析に典型的な様に言語の問題としての狂気を捉えるのではなく、経験的に行動の問題として狂気を捉えられている、という事かと。問題の対象としてあるのは、社会を根源的に転覆するような事ではなく、社会や場の秩序を軽く掻き乱し混乱させていくような事である。著者はフーコーのパレーシアの議論を引きつつ、「生存のスタイル」として彼らを肯定しなければならないとする。で、ここがすげえなと思ったんですけど、頻繁に言われるような「集団の空気を読まない人」云々はもとより、ヘイトスピーチに勤しむレイシストたちやイスラム国の人たちを肯定しようとする(確かに彼らのテロリズムがもたらすのは、社会全体の転覆というよりは、社会の中に暴力を遍在化させる事である)。

あたらしい狂気の歴史  -精神病理の哲学-

あたらしい狂気の歴史 -精神病理の哲学-

【読んだ】ジル・ドゥルーズ著 國分功一郎訳『カントの批判哲学』

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)
▼訳者解説が白眉。「ここからここまではカントの話」「ここからドゥルーズの話」っていうのをものっすごい明確にした上で、この本が後のドゥルーズの論にどう引き継がれていくのかというのがすごくよく分かる。

▼カント先生の哲学に出てくる能力って、第1に「認識能力(純粋理性批判)」、「欲求能力(実践理性批判)」、「感情能力(判断力批判)」っていうのがありますよね、と。で、第2に(「感性」という1つの受動的能力と)「悟性」「理性」「構想力」という3つの能動的能力がありますよね、と。この第1の能力それぞれの場面について、第2の能力が組み合わさってシステムを作ってるんですよ、と。

▼認識能力の場合。「主導的立場に立って諸能力の一致をもたらし、立法行為を行うのは、悟性である。構想力は、感性の受けとった直観について、総合と図式化を行って、それを表象にする。悟性は、表象に自らの有する概念を適用して判断を下す。理性は、概念を用いて推論を行うために、経験を超え出る理念を形成して、悟性を支える(P195)」。

▼欲求能力の場合。「主導的立場に立って諸能力の一致をもたらし、立法行為を行うのは、理性である。理性は、自由という理念に基いて、物自体に対して立法行為を行う。ご制覇、ある行動が道徳法則に適合しているのかを判断する。構想力は、美と崇高を通じて、感性的自然における合目的性の存在を明らかにし、一見したところ単に信仰に寄りかかっているように見える道徳意識を陰で支える(P199)」。

▼感情能力の場合「ここでは、主導的立場に立って諸能力の一致をもたらす能力は存在しない。構想力は悟性による規定から逃れて、自由に振る舞う。悟性は規定された概念なしで作動する。これらの両者が一致した時に、美的判断力と呼ばれるものが成立する。主導的立場に立つ能力はないが、立法行為を行う能力は存在する。それは判断力である。但し、判断力は、確かに一つの能力ではあるものの、それは諸能力の一致としてのみ存在するのであって、悟性や理性とは位置づけが異なる。また、立法行為を行うといっても、対象は存在せず、ただ自らに対してのみ立法行為を行う(P203)」。

▼じゃあこれを通じてドゥルーズが何をやろうとしていたかというと、「批判哲学を、諸能力という項からなる置換体系に還元するという一種の形式化作業を行い、それによって、システムの基礎、すなわち、システム自身では基礎付けられない点を明らかにした(P213)」。逆に言うと、カントは超越論的な領域を「想定」してしまっていると。しかも、超越論的領野は経験に基づかないものであるとしているにもかかわらず、カントはその理論家にあたって経験的領野を引き写してしまっていると。 従って必要なのは、「想定」ではなく「発生」を描く事、とりわけカントが経験の基礎として据える「主体」の発生を描く事だと。で、ドゥルーズが後に論じる「出来事」や「差異」「潜在的なもの」を経て「内在平面」に至るまでの出発点が、本書にあるんですよ、という事かと。

われわれは一方にある受容の能力としての直感的感性と、他方にある真の表象の源泉としての能動的な諸能力とを区別しなければならない。総合は、その能動性において捉えられるとき、構想力へと関連づけられる。その統一性において捉えられるときは悟性へと、その全体性において捉えられるときは理性へと関連づけられる。ゆえに、総合へと介入してくる三つの能動的な能力、すなわち、構想力、悟性、理性があるわけだが、しかし、それらの能力はまだ、その内の一つを他の一能力に対比させて考察してみるなら、特殊な表象の源泉でもある。われわれの体制は、受容的能力を一つ、そして能動的能力を三つ持っているということになる(p24)。

それぞれの<批判>ごとに、悟性、理性、構想力は、様々な関係に入り、その際、これらの能力の内のどれか一つが統轄的な位置に立つ。したがって、われわれがどの関心を考察するかにしたがって、諸能力の関係の中には、一貫性をもった変化が起こることになる。一言で言えば次のようになる。語の第一の意味での能力(認識能力、欲求能力、快・不快の感情)には、語の第二の意味での諸能力(構想力、悟性、理性)の関係の一つが対応しなければならない。かくして、諸能力についての理論は、超越論的方法を構成する、一つの心のネットワークを形成するのである。(P27-P28)

それゆえにカントは、二つの立法行為と、それに対応する二つの領域とを区別している。すなわち、「自然諸概念による立法」とは、これら〔自然〕諸概念を規定するものである悟性が、認識能力ないし理性の思弁的関心の中で立法行為を行う場合を言う。その領域は、あらゆる可能な経験の対象としての現象の領域、ただし、現象が感性的自然を形づくる限りにおいてのかかる領域である。「自由概念による立法」とは、この〔自由〕概念を規定するものである理性が、欲求能力において、すなわち、自らの固有の実践的関心において立法行為を行う場合を言う。その領域は、ヌーメナとして思考された物自体の領域、ただし、物自体が超感性的自然を形づくる限りにおいてのかかる領域である。これこそが、カントの言うところの、二つの領域の間の「大きな裂け目」である。(P68)

ひとつだけ、実践理性批判の全体に関わる危険な誤解がある。それは、カントの言う道徳は自らが実現されることに無関心であると考えてしまうことだ。実のところ、感性界と超感性界の間の裂け目は、埋められるためだけににみ存在する。すなわち、超感性的なものが認識されるのを免れ、感性的なものから超感性的なものへとわれわれを移行させる理性の思弁的使用なるものが存在しないとすれば、その代わりに、「超感性的なものは、感性的なものに対して、ある影響を及ぼすべきであり、自由の概念は、その法則によって課された目的を感性界の中で実現すべきである」。つまり、超感性界は原型であり、感性界は「模型である。なぜなら、それは前者の理念から生ずる可能的結果を含んでいるからだ」。自由な原因は純粋に可想的である。しかし、われわれは、現象であるのも、物自体であるのも、同じひとつの存在なのであり、現象としては自然的必然性に従属し、物自体としては自由な因果性の源泉であると考えねばならない。それだけれはない。同じ行動、同じ結果が、一方で、感性的諸原因の連鎖へと送り返され、この連鎖によればこの行動ないし結果は必然的なものであるわけだが、他方で、それ自身が自らの諸々の原因とともに、ひとつの自由は<原因>にも送り返されるのであり、この行動ないし結果はこうした原因の表徴ないし表現であるのだ。自由な原因は、決して自らの内にその結果を待つことはない。なぜなら、自由な原因の中には何も到来しないし、何も始まりはしないからである。自由な因果性は感性上の結果以外の結果をもたらさない。ゆえに、自由な因果性の法則としての実践理性は、それ自体が、「諸現象に対して何らかの因果性をもつ」はずである。(P82-83)

われわれは、自然と自由に、感性的自然と超感性的自然に対応する二つの立法行為、したがって二つの領域〔domaines〕が存在することを知っている。しかし、ただひとつの領土〔terrain〕、つまり経験という領土しか存在しないのである。(P83-84)

道徳法則は、直感ならびに感性の諸条件から完全に独立している。つまり、超感性的<自然>は、感性的<自然>から独立している。諸々の善も、それ自体、それらを実現するわれわれの物理的能力から独立しており、それらを実現する行動を意志する道徳的可能性によって(但し論理的な吟味に一致する仕方で)規定されているに過ぎない。しかし、道徳法則は、自らのもたらす感性上の気血から切り離されれば何ものでもないことに変わりはない。自由もまた、自らのもたらす感性上の結果から切り離されれば何ものでもないことに変わりはない。(P85)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)