【読んだ】小泉義之『病いの哲学』

病いの哲学 (ちくま新書)

■感動的ではあるものの、どう判断すれば良いのかには迷う。冒頭で示される通り、本書は「生と死」という二分法を批判し、その間にある「病気の生」「病人の生」を肯定して擁護するもの。前半部ではソクラテスハイデッガーレヴィナスが「死に淫する哲学」として批判され、後半では病人の生を肯定するために、パスカルガブリエル・マルセル、ジャン・リュック・ナンシーが議論され、更にそれをプラクティカルな次元で考えるために、パーソンズフーコーが合わせて紹介される。

■「死に淫する哲学」について。哲学においては伝統的に「死」を考え続けていたけれども、その系譜がソクラテスの「死」と、刑死を受け入れたソクラテスの死生観に端を発する事を指摘される(牢獄としての肉体、肉体から魂が欠如する瞬間としての死)。それはハイデッガーレヴィナスに連なる「善き死」や「肯定されるべき犠牲・献身」の議論に続くと。ソクラテスにとっては神が、ハイデッガーにとっては共同体が、レヴィナスにとっては人間が、死を意味づけるものとして要請されるんだが、それは即ち「死ぬ瞬間だけは真・善・美を手にする事ができるという信仰」だと。

■他方、病人の生についての議論は、痛みや病苦、希望、不随意運動等々を軸に展開される。病人の回復とは必ずしも最良の状態を求めることではなく、変化した肉体が別の状態として完成して落ち着く事だと。この回復への「希望」は計算不可能な原理であり、医療行為を当てにするものではない。しかし医療はこの希望に賭けるからこそ、患者を延命しなければならない。また、この新たな肉体の状態を希望する上で重要なものが「不随意性」で、そもそも人間の自由は根源的に不随意性に支えられていると。従って随意運動が失われたとて、不随意な身体を守り続けなければならない。フーコーが『臨床医学の誕生』で論じてたのは実は、病理解剖学は死を通じて「病人の生の豊かさ」を発見した事だったと。

■もちろん病人の痛みや病苦の問題についても論じられていて、パスカルが引かれているのだけれども、ここに対しての回答はあまり理解を出来ていない。それは『生と病の哲学』の各章を読み直そうと思う。

パーソンズを引き合いに議論されるのは、病人の生を巡って、医療がどのように社会的に構築されているか、という事。基本的な前提として、医療制度を社会的に機能させるために、専門家としての医師と、受動的な患者という構図が要請されると。しかし、上述の不随意性や希望の話の通り、医療行為においては決定不可能なゾーンが必ず存在すると。医療の社会的機能の維持のためにはこの非合理的なメカニズムを何かしらの形で隠蔽するもの(呪術)が必要で、かつては医療への信仰がそれにあたっていたと。しかし医療への信仰が揺らいでいる現在においては「善き死」なるものが呪術の機能的等価物になっていると。

■これに抗するためには、病人は病人としての社会的役割を拒否し、「親密圏から離れ、逸脱した集団を形成し、下位文化を形成して、決して呪術を信仰せず、しかし絶対に回復の希望を捨てずに、生き延びる必要がある」とする(P206)。そこでは、「生き延びる事が闘争」だとも言う。この辺については、原則論として感動をしつつも、妥当性を判断するのは難しい。というか正直に言えば、当事者性への配慮(というか、更に正直にいうと事態を「正しく」捉えられないという恐怖やおそれ)から、どうしても何かを言えなくなってしまう。しかし逆に言えば本書は、臨床やケーススタディに基づく現場論を排し、徹底徹尾、哲学的にのみ尊厳死安楽死を論じている訳で、やっぱそれはとても感動的(もちろん本書の根底に「現場」の知見がある事は、あとがきを読めば明らか)。『生殖の哲学』で言われていた彼の信念を思い出す→「私の信条ですが、倫理的に間違えていることは絶対に理論的にも間違えていると信じています。そう信じることが、理論家の倫理だと思います」。

■ところでこの本の最終章で「死を見てしまった生」という言葉を見た時に、もう何年も前だけど、森美術館でやってた「医学と芸術展」で見たヴァルター・シェルスの「life before death」という作品シリーズを思い出した。大きく引き伸ばされた二枚の写真が並んでおり、双方に同一人物の顔のアップが映し出される。片方は余命宣告を受けた病人の死の直前の写真で、片方は死の直後の顔のアップだというもの。例えば、言語的な理解をもって作品を解釈するならば(つまりネットでイメケンした情報として作品に触れる次元では)、死の直前まで尊厳を保ち続けている様に見える彼らの顔の写真は、いわゆる「善き死」の瞬間を捉えている様に見えるし、二枚の写真の並べ方はまさに「生と死の二分法」に則っている様にも見える。僕も展示を観た時には、強烈な身体感覚を覚えながらも、「深遠さで死を演出しつつ、その実、実はスペクタクルに回収しているのでは?」みたいな事を嘘ぶいていた気がする。しかし改めて思い出してみると、巨大なポートレートに克明に写る皺や毛穴や、筋肉同士の微妙な緊張関係に見入ってしまったのは、まさに「生の死に対する特別な関係に置かれた状態(P214)」や「末期の生体の豊かさ(P214)」に見入ってしまったのかもしれない、と考え直した。すなわち、こういう事かと→「死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終わりは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。これが末期の生の実情、そして、生そのものの実情である。だから、病人の生を肯定し擁護することは、生そのものの肯定と擁護に繋がるのである。(P218)」。

病いの哲学 (ちくま新書)

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